
真珠湾攻撃で煙を噴き上げる米軍艦の写真が、文芸作家による同人雑誌の目次ページに掲載された。1941(昭和16)年12月8日の日米開戦から間もなくのことで、国中が「やった、やった」の万歳にわいていたころである◆同人の席で作家の野口冨士男さんが苦々しげに言った。「これは、誰が決めたのですか、このような写真をのせるのは軽率というか…どうも」。多くの人が内心ではうなずきつつ、誰も声を発しなかったという◆やりとりを見ていた作家、水上勉さんが書きとめている。「このように、あの時代の物ごとのとりきめというようなものは、人がだまっているうちに決まってしまったのかもしれない」と(「文壇放浪」より)◆抗しがたい場の空気が人々の耳をふさぎ、口をつぐませる。徹底して異論を排した国の悲惨な末路を79年後の私たちは知っている。言論を一色に染め上げ、戦意をあおったメディアの責任もまた問われ続けよう◆〈最初からはんたいでしたとみんな言うそれならこうはならないものを〉(松村正直)。現代歌人の一首は暗い過去の話のようでいて、必ずしもそうとは言い切れない◆場の空気にかき消され、ひっそりとうずくまる小さな声に気づく。そういう耳を持ちたいと今日の日に思う。(神戸新聞・「正平調」2020・12・8)(註 雑誌掲載写真とは異なると思う。所蔵しているはずですが、資料は見つからなかった)

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もう八十年が過ぎたともいえるし、まだ八十年しかたっていないとも言えそうです。対米戦争の火蓋を切った「真珠湾攻撃」、確かに奇襲作戦だったのかもしれませんが、すでに米側は「暗号解読」によって、この奇襲を想定していたとされています。指揮官は「短期決戦」しか望まない、長引けば勝ち目はないといった。ぼくが大学に入ったころ、上の「正平調」に述べられている雑誌だったか、記憶はあいまいですが、ある高名な文芸評論家は、この写真を評して「美しい」という形容詞を使ったのを読んでいました。その時分のぼくはまだよちよち歩きを始めたばかりでしたから、事の真相というか歴史のとらえ方が未熟だったので、その写真と文章をやり過ごしてしまいました。(左は野口富士男氏)
後年、くだんの評論家の書くものにいたく魅せられ徹底して読んだのですが、徐々に彼の内面の「国粋」(天皇とのきわめて近い距離感の強調)とでも言いたいような感性に強い違和感をいだいてしまい、すっかり、その熱は冷めたのでした。でも時間的には相当長い熱病にかかっていたといえそうです。「こんなに古い歴史を持った国はほかにはどこにもないのだ」といった「独尊」を声高にではなくとも、言い募る姿勢に、ぼくは近寄ることができなくなっていった。「これは、誰が決めたのですか、このような写真をのせるのは軽率というか…どうも」「このように、あの時代の物ごとのとりきめというようなものは、人がだまっているうちに決まってしまったのかもしれない」このような何気ないやり取りを、ぼくたちは見過ごしてしまう。ものごとは、「だまっているうちに決まる」ということがあるのでしょうか。

「世紀の一戦」が始まった、その初頭を飾った一枚の写真にどのような感想や評価を下すか、それはどうでもいいことではないと思う。この「奇襲作戦」の成功を寿ぐ新聞の大報道はどうでしょう。「このような写真をのせるのは軽率というか、」という批判も新聞社では決して生まれていなかった。「どうも」困ったものだという記者がいたら、新聞社は取り潰されていたでしょう。これは、八十年前の昔話ではありません。「電波法」や「再販制」をかたに取られて、グウの音も出ないことおびただしいのです。それもあろうが、我は権力側に列する(与する)と自己判断しているという愚かさです。
先に挙げた文芸評論家は「国民は黙って事変に処した」という言い方を「満州事変」に際して使いました。また従軍報道者として戦地に赴き、たくさんの文章(「戦地慰問」風)も残しています。それもまた、ぼくは熱心に読んだものです。「事変」というものの意味も脈絡もわからず、ただ彼が書く文章の綾というか、思考されたものがそのままに文章になるという「推敲」「考察」の見事さに浮かされていたと、白状しておきます。還暦を過ぎてから、彼が書いたものを「同年代」の人間として読んで、一驚したことを思い出します。こんな程度の事だったのか、なんと狭い了見だったかと。
一枚の写真が語る事実(写実)にはたくさんの側面というか、表情があります。軍艦を爆撃する、見事な奇襲(だまし討ち)だという「感動」もあろう。そこに何の感傷・偏見も入らない(必要ない)というのも一つも立場です。撃沈され艦隊の乗組員はどうした、その家族の歎きはどういうものか、例えばそのようなあれこれの背景や事情を思いが浮かべれば、まったく異なった見方が生じるであろうし、ひいては「戦争」に対する態度もまた、大きく異なってくるに違いありません。
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「言論を一色に染め上げ、戦意をあおったメディアの責任もまた問われ続けよう」「場の空気にかき消され、ひっそりとうずくまる小さな声に気づく。そういう耳を持ちたいと今日の日に思う」コラム氏の言うところに、大きな異議があるのではありません。この「開戦記念日」(などという日があっていいのだろうか)、「この日」だからこそ、かかる「感想」が沸いたのではないでしょうに、そう言いたいのです。「メディアの責任」を自問自答する、それは新聞人であるという以上に(その前に)、一人の大人(職業人)として、当たりまえの姿勢だと言わなければならないし、「うずくまる小さな声」に耳を傾けることこそが、デモクラシーの初歩じゃないかとぼくは愚考しているのです。特別の才能や努力が求められるのではなく、すこしばかりの「尊敬心」があればこそ、それだけのことでしょう、人が集まって住む社会に、他者と生きているというのは。
「徹底して異論を排した国の悲惨な末路を79年後の私たちは知っている」という部分、ぼくにはよくわかりませんでした。「悲惨な末路」がわかるために「79年」が必要だったのですか。「戦争は愚かなことだ」というのはぼくにはつねに「事実」ですから、敗戦後何十年もたたなくてもわかっているのですが。あるいは、それとも、…。(ぼくは「戦後」と同じ意味合いで、いつでも「戦前」という語を使っています。もっと言えば、一つの戦争が勝ち負けは別として、片が付く(終わる)と、そこからまた、いつでも「戦前」が始まるといいたいのです)
今もなお(あるいは、また)「大東亜戦争を」たたかっているんじゃないのでしょうか。「言論を一色に染め上げ」「戦意をあおったメディア」は、果して責任をどうとらえているのか。「大東亜」という幻想はどこにでも生まれる。れは「たとえば、それは東京五輪」という旗を振っているのかもしれないし、「国民なら、だまって賛成する」のが当然だと、「ひっそりとうずくまる小さな声」をローラーで踏みしだいているのではないでしょうか。主要メディアは挙って「東京五輪」のスポンサーとなっています。(下の新聞「号外」「特別号外」と銘打った「臨時ニュース」でした。七年前の九月のこと)





(現在もなお「原子力緊急事態宣言」は発令中です)(これは、誰が決めたことですか)
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