91歳まで続くとは思わなかった

10歳から81年間書き続けている日記を前に語る北村知久さん=東京都武蔵野市で

 どういう北風の吹き回しか、このところ思い出したように定家の「明月記」を拾い読みしています。大学入試に備えるわけでもなく、研究成果を発表するでもなく、まして定家の親戚筋でもないのですから、それこそ気紛れの思い付きとしか言いようがありません。念のうちに、いつか何かの拍子に無性にあるものが読みたくなるという悪習があるのです。

 ぼくは大学に入った瞬間に、当時岩波書店から出ていた「日本古典文学全集」(全百巻)を衝動買いした。(同時に「筑摩現代文学大系」を全巻揃えた。これは刊行開始早々でしたから、月一冊当てでそろえたと思う)何かはっきりとして目的や当てがあったのではなぃ、もちろん金もなかったのに、「本を読むぞ」という漠然とした気分を入学以来持っていた、それを確かめるつもりだったとしか思われなかった。よくぞ、そんな向こう見ずの、文無し若造に後払いで買わせてくれた大人がいたことに感動しました。図書館には全部そろっていたのに。今もって、その時の「興奮」を肌で感じることができます。いったい値段はいくらだったか、当時は「定価」で買うのが当たり前だったし、古書でという趣味も生活の算段(知恵)もなかった。岩波本、たしか生協の書籍部で分割購入したと記憶しています。

 それが半世紀を過ぎても、今もなお貧弱な書棚の幾段かを占めています。本やレコードだと、それを買った時代がいつでも鮮明によみがえるのですから、記憶装置付きショッピングという、なんか儲けものをしたような気にさえなります。その時は「定価」から「定家」は連想できなかった。百人一首の定家は知っていた。ぼくは京都時代に今出川にあった「冷泉家」ー明月記」が保存されているーの前を何度も通ったことがあり、その先に同志社大学(同級生の多くが在学していた)もあったから、その景色にも親しんでいたのです。後年、古典「明月記」の一部が岡山で発見されたいう報道に驚嘆したことも思い出します。(右下写真 いかにも時代の「ちぐはぐ」が現れている「冷泉家」。前面が今出川通)

 それはともかく、定家は「明月記」という、驚くべき退屈な日記を、十九歳から始めて、なんと六十年も書き綴っていたというのが、若いぼくの肝を冷やすのに十分でした。彼は応保二(一一六ニ)年に生まれ、仁治二(一二四一)年に亡くなっていますから、生涯八十年余の、ほとんどが日記に録されていることになります。(いずれこのことは別の機会に)こんな人は他にいるはずがないと考えてもあながち無理もありませんね。

 だからぼくは、本日の東京新聞に目と耳を奪われたのです。「タヌキの朝帰り」にも目を射られましたが、こちらはコロナ化は人もタヌキも、災難であるのは同じだという詩興がありますが、八十一年の日記継続には「震撼」させられましたと、正直に言っておきます。いるんですね。一を以てこれを貫く、という信念の人が。十歳から始めたといいますが、わが身に照らせば、いったい僕は何をしていたか。一人の野生児として野山を終日駆け回り、ひたすら自然に還ることを希求していたのではなかったか。遊び場は兼好・長明をはじめ、平安鎌倉の早々たるメンバーの足跡も傷跡も鮮やかに残されている都の辺地でした。

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 「花丸の人生」つまった93冊 81年間書き続けた日記帳で振り返る、武蔵野市の91歳北村和久さん

 81年間つけてきた日記は93冊になった。東京都武蔵野市の北村知久さん(91)は、1940年から手帳や日記帳などに日々の出来事や思いをつづっている。戦争と復興、高度経済成長、災害…。自らの目を通して見た時代の断片と、人生の喜怒哀楽がつまったページをめくりながら「当時の記憶がよみがえり、過ぎ去った人生をもう一度味わうことができる」と語る。(長竹祐子)

「生きているうちは続けたい」という北村和久さん

 初めて手にした日記帳は、神武天皇即位2600年を記念した「小学生日記」(博文館)。東京市四谷区(現東京都新宿区)の尋常小学校5年だった10歳のとき、両親に買ってもらったことがきっかけで日記を書き始めた。

 ◆駆け抜けた昭和-平成-令和 軍国少年は良き父に

 軍国少年だった。真珠湾攻撃のあった41年12月8日の日記は、「来た。いよいよ日米戦争!! ああこの日」と興奮した様子で記している。その後も「比島に上陸」「万歳を叫ばずにはいられない」など威勢のいい言葉が並ぶ。北村さんは「当時の雰囲気だと、みんなこうなっちゃうね」と振り返る。45年5月25日、山手空襲に遭った。翌日の日記には、自宅の焼け跡を掘り起こし天をにらむ自身のイラストを描き「敢然と焦土より立て。焼けた物は焼けたんだ」と添えた。

 「生きているうちは続けたい」という北村和久さん 戦後は食糧難に苦しんだ。46年6月21日、「もう明日の米は一粒もない。(中略)ねころんでそっと腹をなでてみると肋骨ろっこつばかり」と骸骨のような自身の姿を描いた。「あのころを経験している身として、おなかがすくってどんなにつらいかがよくわかる」 51年に帝国銀行(現三井住友銀行)に入行し、10年後に32歳で佳子さん(84)と結婚。日記には「男児が誕生した」「パパー、パパーと言った。感激!」などと家族の記録も。

 ◆金婚式の日に東日本大震災 そして日記は82年目へ

 71年7月15日、米大統領が初の訪中を宣言。いわゆる「ニクソン・ショック」だ。2日後の日記は「世界の動きが大きく変わりそうだ。日本はどうなるんだろう」とつづった。 結婚50年の金婚式だった2011年3月11日、東日本大震災が起きた。「東京でも震度5以上の揺れで玄関の扉をあけて立ちすくんだ。(中略)明日もどうなるかわからない」。不安な思いが文面ににじむ。 子どものときから文章や絵が好きだったというが、「日記を書き始めたころは、91歳まで続くと思わなかった」と北村さん。昭和、平成、令和と時代を経て積み上がった日記を前に「奇跡の花丸の人生でした。生きているうちは続けたい」。年が明けると、82年目の日記が始まる(東京新聞・2020年12月6日) 

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 中唐の大詩人白居易(白楽天)(772-846)。ぼくは、これも若さに任せて彼の「白氏文集」を読んだことがあります。ことに「長恨歌」は愛読した。いうまでもなく「玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋もの」で、はたしてわかって読んだのかどうか、今でも怪しい。分かりきらなかったから、余計に興味をそそられたのかもわかりません。その白居易に「劉十九 同じく宿す」と題した詩がある。その詩に、若かった定家が魅かれていたのでしょう。

 紅旗破賊非吾事、黄紙除書無我名。唯共嵩陽劉處士、圍棋賭酒到天明。

 「明月記」中に「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず」と記す。源平合戦の最中に成人した定家です。清盛が福原遷都をした年(治承四年・1180年)に、「日記」を書き始めます。定家は十九歳でした。殺し合いなんか知ったことかと、政変に背を向けて、官職の多忙の合間に、ひたすら私事に徹する。何を想いい、日記を書き続けたのか。謎ですね、ぼくには。

 今日の定家である、北村さんはどうだったか。軍国少年が、幾星霜を経て九十一歳を過ぎたのです。彼個人にとっては「八十三冊の日記」には感慨深いものがあるはずです。多くの「日記」は他者に読まれることを想定も期待もしていない。だからあけすけに言えば、どんな事柄も細大漏らさず書けるのでしょうが、世間には、そうでない日記もあるようで、ぼくなんかには気が知れないのです。だから、いまでも他人の日記なんかを読もうという趣味がない。永井荷風のものなども大いに評価されているが、それだけ「覗き趣味」を持つ人がいることの証明でしょうか。(このあたりの好悪・機微についても、今後の「明月記」雑記において、愚考の後を書いてみますか)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)