
「旅行けば 駿河の道に茶の香り 流れも清き大田川 若鮎おどる頃となる 松の緑の色も冴え 遠州森町よい茶の出どこ 娘やりたやお茶摘みに ここは名代の火伏の神 秋葉神社の参道に 産声上げし快男児 昭和の御代まで名を残す遠州森の石松を 不弁ながらも務めます。」
二代目広沢虎造演じるところの「石松三十石船道中」のまくらです。ぼくは小学校低学年のころから、この浪花節をどれほど聞いたでしょうか。娯楽というものが、ラジオしかなかったような時代です。かすかな記憶では毎週何本もの「浪曲」番組がありました。素人が参加するものまね浪曲もあった。もちろん落語や漫才も。いまだにつづくぼくの演芸好きは、この頃から始まったといっても過言ではありません。毎週ラジオにかじりついて、日々を過ごしていた。虎造で聞く「清水次郎長伝」は、何にも代えがたい学習の機会でした。男心とか、義理人情という面倒な機微を学んだといえるかもしれない。いったい、次郎長とは何者か?虎造とは?
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清水次郎長


東名高速道清水インター脇の貯水タンクは、静岡市清水区のさまざまな名物が描かれている巨大な広告塔でもある。ウイスキーのキャラクター「アンクルトリス」で知られるイラストレーターの故柳原良平さんがデザインを手掛けた。
30年近く前、旧清水市が塗り替えを計画した際、清水次郎長を引き続き登場させるかどうかで論争になった。一般的には切った張ったの世界に身を置いた前半生のイメージが強い。渡世人をPRに使うのは適当でないとの意見も出た。/ 最終的に、清水といえば次郎長は欠かせないという声が大勢を占めた。ただ、羽衣の松や天女、ミカン、サッカー選手などと共に新たに描かれた次郎長は、塗り替え前よりも一回り小さくなって、現在に至っている。

今年は次郎長の生誕200年。地元の官民組織は「郷土の偉人」と明確に位置付けた。清水港の整備、富士山麓の開拓など、地域の発展に尽力した後半生の功績に光を当てる記念事業を来年度まで展開していく。/ 次郎長は英語塾を日本で初めて開いたともいわれる。清水港の整備も静岡茶の輸出が念頭にあった。江戸から明治に時代が変わったのを機に、「海道一の大親分」は国際派の事業家に転身を遂げたといえる。人生をやり直す手本として語られることもある。

子どもたちに次郎長のことをどう教えるのかが難しいと、正直に語る地元の小学校教諭の声を聞いたことがある。善い面も悪い面もすべて伝えたという教師もいた。こうして人々を悩ますのも、他の偉人にはない次郎長の魅力かもしれない。(静岡新聞「大自在」2020/12/4 08:30)
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● しみずの・じろちょう(1820~1893)本名・山本長五郎。駿河国清水町の廻船業・高木三右衛門の次男として生まれ、叔父の米穀商・山本次郎八の養子となる。呼び名の「次郎長」は「次郎八のところの長五郎」が縮まったとされる。山本家は裕福な商家だったが、養父の死後、博打をめぐる争いで傷害事件を起こして出奔し、博徒の世界に身を投じる。1859(安政6)年、尾張から三河に大きな勢力を張っていた博徒の大物・保下田久六を殺害したことで名を上げ、故郷の清水に一家を構える。大政、小政ら個性的な子分を使いこなし、幕末までに周辺の敵対勢力を圧倒し、東海道一の大親分として知られるようになる。

明治維新直後の政情不安な中で、新政府(東征総督府)から清水港周辺の警備を命じられる。68(明治元)年、清水港内で旧幕府と新政府の軍艦が交戦し、幕府側戦死者の遺体が港内を漂流するが、新政府の威光を恐れて放置された。見かねた次郎長が遺体を手厚く葬り、それをとがめられると、「仏に朝敵も官軍もない」とたんかを切ったエピソードは広く知られる。維新後は富士山麓の開墾など正業に従事するが、84(明治17)年、賭博犯処分規則により逮捕され、服役する。釈放後、清水港で船宿を経営、93(明治26)年に病気で死去。(画像は、79(明治12)年ごろの撮影とされる写真)(国立国会図書館提供) 【時事通信社】
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「侠客」「任侠」とくれば、ヤクザです。「任侠」は「弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。おとこ気。「―道」」(大辞泉)というそうです。本場は中国、近いところでは「水滸伝」がありますが、もともとは「無頼の徒」でした。細かく言えば切りがないので、今回は深入りしません。それに対して、「やくざ」というのは役に立たないもの(賭博カードで八・九・三」は、カスです)の意味を持っていたのですが、それが正業に就かず無法な生き方をする者たちを指すようにもなった。やがて、任侠や侠客と重なり合って、意味が混乱してきます。暴力団は論外として、次郎長のような「街道一の大親分」には勇み肌の子分がいます。大政、小政、石松その他、いずれも一廉の侠客でありました。戦前に大流行した歌謡曲に「旅姿三人男」があります。歌ったのはディック・ミネ。幼いぼくも、よく歌いました。「いつか、きっとりっぱな男伊達に」と念じていたのだったか。その念は通じたでしょうか。ちょっとだけ、ね。(左上写真「次郎長三国志」に出演した虎造、中は淡島千景、右は森繁久彌)

昭和13年(1938年) JASRAC No.046-0127-1 旅姿三人男 作詞:宮本旅人 作曲:鈴木哲夫 歌唱:ディック・ミネ 制作:滝野細道 (一) 清水港の 名物は お茶の香りと 男伊達 見たか聞いたか あの啖呵 粋な小政の 粋な小政の旅姿 (二) 富士の高嶺の 白雪が 解けて流れる 真清水で 男磨いた 勇み肌 なんで大政 なんで大政国を売る (三) 腕と度胸じゃ 負けないが 人情からめば ついほろり 見えぬ片目に 出る涙 森の石松 森の石松よい男
「春の旅 花はたちばな駿河路行けば 富士のお山は春がすみ 風はそよ風茶の香が匂う 歌がきこえる茶摘唄 赤い襷に姐さんかぶり 娘二人のあで姿 富士と並んでその名も高い 清水次郎長街道一よ 命一つを長脇差に かけて一筋仁義に生きる 噂に残る伊達男」(「次郎長伝」の「まくら」)

ここでは清水次郎長(本名山本長五郎)と、その次郎長を主題にした「浪曲師・広沢虎造」の二人をテーマにして、なにがしかを騙ろうとしているのですが、時間切れと息切れが同時に来ました。「山口組」にまでたどれると面白くなるのですが。それは、島社会のもう一つの「歴史」でもあるからです。「任侠に生きる人」がときどき表社会に顔を出しましたし、裏社会につながる政治家なども、今でもいるようですから。
そして、堅気もヤクザも区別がなくなって、ヤクザ顔負けの堅気が出てくる時代になってしまいました。あらゆる職業の選択は自由であるとはいえ、法を守るという素振りも見せずに、違法・脱法行為を平然とする輩が「正業」に就く、それを不思議とも理不尽とも思わなければならないでしょう。正邪・善悪のあからさまな区別が成り立って、初めて社会(世間)というものにおいて、人が集まって住みあう場となるというものですが、いまは清濁併せのみ、ヤクザか堅気かが判然としないような人物に政治も企業も牛耳られてしまっている、そんなどうしようもない時代に、ぼくたちは生きているのです。 「ちょうど時間となりました、おそまつながら。また口演」(どこかに、たぶん続くはず)
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