
おとといの朝、テレビをつけたら、奈良の最低気温は4度台だった。かなりの冷え込みの中、12月がスタートした。/ 駅頭では「歳末たすけあい運動」への協力を呼び掛ける人々の姿が見られた。コロナ禍で誰もが苦しめられた1年。何とか皆が前向きな気持ちで新年を迎えられるようにと、祈らずにはいられなかった。

12月3日は、山口県出身で自由律俳句の代表的俳人の一人、種田山頭火の誕生日。「うしろすがたのしぐれてゆくか」など、生涯に8万余句ともいわれる句を詠んだ。/ 漂泊の俳人として有名だが、奈良にも来ている。昭和11(1936)年2月、7カ月に及ぶ長旅の途中、奈良市内に下宿していた俳友の元を訪ね、1泊したという(地域雑誌「ぶらり奈良町」2001年春号)。

奈良女子大近くのその家は、今では築100年近い古民家となり現存。古書喫茶「ちちろ」として、女性観光客らの隠れスポットとして静かな人気がある。/ 山頭火のように、自由に旅ができるのは、一体いつごろになるのだろうか。そんなことを思いながら、やり残した仕事を確認している。(恵)(奈良新聞「国原譜」2020.12.03)
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昭和十年十二月六日、庵中独坐に堪へかねて旅立つ 水に雲かげもおちつかせないものがある 生野島無坪居 あたたかく草の枯れてゐるなり 旅は笹山の笹のそよぐのも 門司埠頭 春潮のテープちぎれてなほも手をふり ばいかる丸にて ふるさとはあの山なみの雪のかがやく 宝塚へ 春の雪ふる女はまことうつくしい あてもない旅の袂草こんなにたまり たたずめば風わたる空のとほくとほく 宇治平等院 三句 雲のゆききも栄華のあとの水ひかる 春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏 うららかな鐘を撞かうよ 伊勢神宮 たふとさはましろなる鶏 魚眠洞君と共に けふはここに来て枯葦いちめん 麦の穂のおもひでがないでもない (「草木塔」
歩きに歩く山頭火です。それを「旅」と言っていいか。「山頭火のように、自由に旅ができるのは、一体いつごろになるのだろうか。そんなことを思いながら、やり残した仕事を確認している。」と余裕のコラム氏の「恵」さん。この時期、山頭火は五十四、五でした。「漂泊」というのは、どうですか。島のあちこちに友人というスポンサーがいました。もちろん、時には野宿もありましたし、食うものもなく銭もないという「ホームレス」状態にあったのも事実ですが、いざという時には、友人に無心することを彼はいとわなかったし、奇特なファンもいたのです。ぼくは山頭火好きですので、彼をあしざまに言うつもりはありません。でも、まるで「go to」気分で「自由に旅」、しかも政府の支援(税金)で、というのでなかったことは確かです。山頭火の「旅」は物見遊山でもなく、グルメ巡りでもなかった。あるいは「道行」に準えてもいいだろうか。

彼が書き残したものを見れば(読めば)、それがどんなに風狂染みていたかが分かろうというものです。「正気」を失わないで「風狂」に遊ぶといった風情だった。「風狂」というのは「気がくるうこと。狂気。 風雅に徹し他を顧みないこと。また、その人。」(デジタル大辞泉)というようですが、その奇人たちにも流派はあったろうし、先達がいたのです。なによりも芭蕉が第一の祖だったといってもいいでしょう。遥かの昔、西行という野人もいましたし、さらには長明さんも仲間だったかもしれない。だが、彼らは世間とは切れなかった、世間が放さなかったのかもしれぬ。山頭火はどうでしょうか。世間が認知しなかったし、山頭火も世を拗ねていた。妻との間に子をなしながらの「家出」だったとぼくは見ています。
(安藤次男さんに「風狂始末」と題された芭蕉俳句評論があります。今は文庫本で読むことができます)
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青葉わけゆく良寛さまも行かしたろ(国上山と題して)

奈良は文人(にかぎらず)には特別の地だったかもしれません。奈良の都と言えば、会津八一です。「青丹よし奈良の都」にかぎりない旅情を感じた人は多かったし、そこに棲みつくことを願った客人もすくなくなかった。会津八一さんもまた、特別の感情を奈良に寄せた歌人でもあったのです。明治十四年八月一日生まれ、だから八一とはいかにも端的。新潟の人で、良寛に親炙する(八一さんは親戚ではなかったが、そのように言いたいほどの親しみを持っていた)。後年上京、子規に会う。二十七歳で初の奈良行き。
●[1881~1956] 歌人,書家,美術史家。新潟の人。秋艸(しゅうそう)道人,渾斎と号す。早大英文科卒。奈良の古美術などを主題にした,総ひらがなの万葉調和歌や,独特の書で有名。早大で英文学と東洋美術の講座を担当。《法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究》,歌集《南京(なんきょう)新唱》《鹿鳴集》等多くの著作がある。(マイペディア)
直接の邂逅はありませんでしたが、若いころからぼくは八一さんの書や歌には親しむ機会に恵まれていました。その良さがじゅうぶんにわかったとは言えませんが。八一を読み、次いで山頭火に及べば、山頭火の心境がさらに分かろうという気になったことがしばしばありました。これはまだ調べきっていないのですが、八一と山頭火は青春の一時期、どこかで(新宿辺で)出会っていたかもしれないという予感を持っているのです。一所不住の人だったがゆえに、すれ違いにすらならなかったこともあり得ますが。

みほとけのあごとひじとにあまでらの あさのひかりのともしきろかも (弥勒菩薩を詠んだもの) 観音のしろきひたひにやうらくの かげうごかしてかぜわたるみゆ (法輪寺十一面観音をよんだもの)
親類でもないのに、好きな人の誕生日だからと、芸のない無駄話をしてしまいました。山頭火も、ぼくにとっては「導きの糸」であり、気が優しすぎた年上の友人という気がずっとしていて、いつも呼びかけたくなるのです。彼が自ら願ったのではない、漂泊を強いられた彼の人生に、ぼくは哀惜の情措く能わざるがままに、ここまで生きて来てしまいました。
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