
早い段階で、このブログで触れた堀田善衛さんです。熱心な読者じゃなかったが、彼の主だったといわれるものは読んできました。とくに「定家明月記私抄」は耽読しました。それについて駄文を、少し書いて見たくなりました。「明月記」とはなにか。
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● 明月記=藤原定家(ていか)の日記で「照光記」ともいう。現存は、1180年(治承4)の18歳から1235年(嘉禎1)74歳までの56年間の日次(ひなみ)日記。途中欠脱もあるが、原本の多くが冷泉(れいぜい)家時雨(しぐれ)亭文庫に現存する。冷泉家に残る譲状(ゆずりじょう)によると、仁治(にんじ)年間(1240~43)まで記されたのであった。また、『明月記』の引用は嘉禎(かてい)4年の記事まである。時雨亭文庫現蔵は、1192年(建久3)~1233年(天福1)までの54巻(途中欠脱年あり)で、そのほか諸文庫にも伝存する。定家の生活や個性を知る最大の資料であるほか、歌壇の動きや詠歌事情、『新古今集』撰修(せんしゅう)の実状が詳細に記され、晩年に多くの古典書写をしたその実態が知られる。また、鎌倉初期の公家(くげ)の政争や生活、ときには庶民社会の記事を含んでいて注目される(ニッポニカ)
● 鎌倉時代、藤原定家の漢文体日記。治承4~嘉禎元年(1180~1235)までの公事・故事・歌道に関する見聞などを記し、史料としての価値が高い。(デジタル大辞泉)

●藤原定家=1162‐1241(応保2‐仁治2) 中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。(世界大百科事典)
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来ぬ人をまつほの浦の夕凪(ゆふなぎ)に焼くや藻塩(もしほ)の身も焦がれつつ

これが代表的なものかどうか、ぼくにはわかりませんが、こんな程度の歌詠みで、百人一首に残るとは。身が焼き焦がれるほど、想い人を俟つとは、なんともつらいね。定家の想い人は夢か現か、ぼくには定かではありませんが、これなら、今日にも当たり前に通用します。定家は、まさか「さざんかの宿」で「来ぬ人をまつ」身だったんですかね。
中世歌人の筆頭格と謳われた歌人であり、「名門」の出とあれば、さぞかしその出処進退はいかにも、名誉の人にふさわしいものだったかと、貧しい想像力を駆り立てるほかありません。堀田さんは「戦時中」に「定家」に出会われた。生身のじゃなく、歴上の人としての定家に、です。
「私はこれまでの生涯をかえりみてみて、いくつかの言葉が、指標のようにして立っているのを見る。/ もっとも早く来たものが、戦時中に知った、藤原定家の日記である明月記中の、
紅旗征戎非吾事。(紅旗征戎ハ我事ニ非ズ。)

戦争なんぞおれの知ったことか、というものであった。天皇からの召集令状なるものが、今日来るか明日来るかと、兢々としていた時に、戦争なんぞ、と言い放つことのできた定家が、心底から羨ましかったのである。この一言は、私の生涯に強い尾を引きつづけて、六十代の大半を明月記の解読に費やされる羽目になった。『定家明月記私抄』正続二冊(新潮社)がそれである。」(堀田『天上大風』ちくま学芸文庫)
源平の合戦が終わったのは、定家二十過ぎの千百八十五年(これを「治承・寿永の乱」という)だった。「朝廷(紅旗)に纏わらない(抵抗する)蛮族である戎を征伐する」、そんなことは「俺は知らぬ存ぜぬ」と定家は言うのです。今からは想像もできない「戦乱」に明け暮れていた御代、歌人の行く末には暗雲が立ち込めていたといっていいでしょう。ここに定家論をさらすのではありません。「堀田さんの顰」というものを思い描き、何かそこから学べるかと愚考したまでです。あるいは堀田さんの定家解読をなぞりながら、過ぎてしまった「定家の時代」を「俯瞰」しようという生意気な、でもいつの時代にも通う「はかなさ」というものを垣間見たいと、目を覚ましていながら寝言を言うような仕儀をしでかそうというわけです。ひょっとして鴨長明に再会できるかもしれない。(この項、断続しながら綴ります)

良夜清光ノ晴未ダ忘レズ 当初ノ僚友往キテ留ル無シ(定家)
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