すでに数度触れたように記憶していますが、さらにまた。『菜根譚』です。「中国の雑学書。2巻。明の洪応明著。成立年未詳。警句ふうの短文357条からなる語録で、仕官中の保身の術や退官後の山林閑居の楽しみを、儒教・仏教・道教の思想をまじえた立場で述べたもの。中国より日本で愛好された。」(デジタル大辞泉)これが愛読書かというと、それほど好んではいません。ホントに暇なときに、パラパラと頁を繰るばかりです。作者には申し訳ないけれど、好きかと訊かれれば、「論語」の方がはるかに。でもそれがただ一冊の名著などと考えたこともないし、ぼくがこれまでに読んできた僅かばかりの書物の中にも、「論語」以上のものがあると思う。どんな本でも「菜根」だとも言えます。繰りかえし咬むことが大切だ。

まあ、時に応じて、好き嫌いは変わるのが常のようですから、「これだけ」「これが最高」、などとは言わないようにしてきました。若いころからの酒飲みで「酒なくて、なんの人生か」という酒癖・卑しさでしたが、今ではすっかり「下戸」(まったく飲まないという意味)で、まるで昔の「啖呵」が嘘だったともいえそうです。今はこれだが、いずれ気が変わるかもしれないね、そんなところにぼくは立っている、いや座っています。さて、「菜根譚」です。菜と根が栄養になるというのですね。本日は、短文を一つ。
矜者、不若逃名趣。練事、何如省事閒。(後集・三十一)
(名に矜(ほこ)るは、名を逃るるの趣あるに若(し)かず。事を練るは、何ぞ事を省くの閒(かん)なるに如かん。)
「名声を世に誇るのは、できるだけ名声を逃れることの奥ゆかしさには及ばない。また、ものごとに練達になるよりは、できるだけ余計なことを減らすことの方が、はるかに余裕がある。」(『菜根譚』今井宇三郎訳注。岩波文庫版)
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一読、さまざまな感想が沸くようでもあり、いやいや、洪先生の言われるように、「自然体」がいいんだという思いもいだきます。これもまた、人生のいくつもの段階で受け止め方が変わって当然であるという、そんな人生訓でしょうか。「名より実」と言いますね。「名を捨てて、実を取る」とも。「体裁・名誉など犠牲にしても、実質的な利益を得るほうを選ぶ。」(デジタル大辞泉)と解説していますが、「実」は「実利」ですかな。実というのは「まこと」であり、「真」であるというのでしょう。ぼくはそう理解しています。まあ、どっちでもいいようなもんですが。実と利が結びつく(結びつける)のも、拝金社会・時代だからですかね。

欲張りは「名実ともに」と願います。その場合、多くは「虚名」であることが避けられないようです。「名こそ惜しけれ」ともいいますが、難しいことはさて置いて、名を汚すな、汚名は晴らせとも言い換えられそうです。この場合の「名」は、具体的な姓名であるというより、「自分そのもの」を指しているでしょう。名前に表される自分、自分自身を粗末にするな、懸けられた罪は雪げ(雪冤)と、身の潔白を示せという意味です。面倒なことは避けます。名を成す、名を遺す、名を汚す、いろいろな言い方も、時に応じて受け取られ方が変わりますから、一概に「こうだ。これであるべきだ」とは言えないようです。「名は体」ですかね。

名声を逃れる方が奥ゆかしいというのは、世間が名前にこだわるからであり、それにつきあっていると碌なことにならないからでしょう。余計なことはするな、身の丈に合った生活をしなさいよ、というのも同様です。いわば、年寄りの生活信条になるかもしれませんが、元気印には「息の詰まる」「お家に居よう・stay home」みたいなのは、「時代遅れ」ですね。という具合に、好き勝手に読めばいいんじゃないですか。
「人よく菜根を咬みえば、即ち百事なすべし。」咬んでも咬んでも、咬み切れないところに「菜根」の値打ちがあるというものです。そして、咬んでいるうちに「味わい」が沁みだしてくると。ぼくの読み方は、そのようでもあり、そのようでもなさそうです。幼少のころ、ぼくは菜根食で存(ながら)えてきました。
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