
〈古家や累々として柚子(ゆず)黄なり〉正岡子規。結核を患っていた明治の文人が、命の輝きに目を奪われて生まれた句だろうか。拙宅の小さな庭にも背丈ほどの木がある。今年は豊作だ▼果実は緑から黄色に衣替えして、数十個たわわになった。冬至の風呂に浮かべる分を枝に残し、知人に熟した実をあげた。すると柚子胡椒(こしょう)に姿を変えて、戻ってきた。恐縮しつつ久々の鍋である。強い酸味と独特の香気が湯豆腐によく合う▼自宅の柚子は移植して10年ほど実がならなかった。「ならないから切るか」。業を煮やした父は、トゲトゲの木にぼやいていた。すると後年、急に実をつけ始めた。まるで私家版の成木(なりき)責めだ。だから、あの香りをかぐと亡き父を思い出す▼ある曲を聴くと突然、失恋で切なかった記憶が、よみがえったりする。音だけでなく、ある色彩や触感、味、そして匂いにも、その時々の大切な思い出が染み込んでいる▼新型ウイルスに感染した人の後遺症が心配されている。精神面のダメージだけでなく、嗅覚障害などが長く残ることも少なくない。匂いを失っては完治といえない。ワクチン開発だけでなく、後遺症対策も急がれる▼結核も感染症である。子規は骨まで冒され、苦痛にもだえた。〈病床の匂袋や浅き春〉。彼が闘病の癒やしとした小袋に、どんな大切な過去が詰まっていたのか。いま、ウイルスと闘う人々の中には香りの慰めすら奪われた人がいる。かけがえのない思い出まで、病と一緒になくなるのは悲しい。(新潟日報「日報抄」・2020/11/28 08:30)
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「正岡子規」(夏目漱石)(初出 明治四十一年九月「ホトトギス」)(青空文庫)

正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処ここに居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻に止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣やる門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎とに角かく自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処そこから手紙をよこして、恩借の金子は当地に於て正に遣い果はたし候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。

併し其前は始終僕の方が御馳走になったものだ。其うち覚えている事を一つ二つ話そうか。正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉くれという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。其時分は常盤会寄宿舎に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食う。或時又来て呉れという。僕が其時返辞をして、行ってもええけれど又鮭で飯を食わせるから厭だといった。其時は大に御馳走をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った。
或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗きれいなうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処で鶉か何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。其後熊本に居る時分、東京へ出て来た時、神田川へ飄亭と三人で行った事もあった。これはまだ正岡の足の立っていた時分だ。

正岡の食意地の張った話というのは、もうこれ位ほか思い出せぬ。あの駒込追分奥井の邸内に居った時分は、一軒別棟の家を借りていたので、下宿から飯を取寄せて食っていた。あの時分は『月の都』という小説を書いていて、大に得意で見せる。其時分は冬だった。大将雪隠へ這入はいるのに火鉢を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸ようやく悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻に僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極きめている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。(以下略)
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●川上眉山=[1869~1908]小説家。大阪の生まれ。名は亮(あきら)。硯友社同人。反俗的な社会批判を含む観念小説を発表したが、文壇の流れに合わず、自殺。小説「書記官」「観音岩」、随筆「ふところ日記」など。
●巌谷小波=[1870~1933]児童文学者・俳人。東京の生まれ。本名、季雄 (すえお) 。別号、漣山人 (さざなみさんじん) 。尾崎紅葉らと硯友社 (けんゆうしゃ) を結成。のち創作童話を発表。また、おとぎ話の口演にも力を注いだ。童話「こがね丸」、童話集「日本昔噺」「世界お伽噺」など。(デジタル大辞泉)
(この時期、文壇は「紅露」時代とも称されていました。『金色夜叉』の紅葉、『五重塔』の露伴。ぼくの好みは文句なしに露伴でした。比較すべき両者ではなかった。露伴の少年ものがいいですね)

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この二人の交友関係に、ぼくはいつでも羨ましい思いをしてきました。出逢いからから別離まで、ほぼ二十年ほど、こんな青春の時間を持ったこと自体、まことに明治という新生国家の「若さ」のゆえに起こり得たフレンドシップであったといいたい気がします。あの神経質な漱石が磊落すぎる子規とコンビを組むなどとは考えられもしないのですが、他人の入り込む余地がないのが「情」の世界なのでしょう。あるいは、それが青春というものか。
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痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず 鶏頭の 十四五本も ありぬべし
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり いくたびも 雪の深さを 尋ねけり(以上は子規)
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉 かしこまる膝のあたりやそぞろ寒
雲来たり雲去る瀑の紅葉かな 菫程な小さき人に生れたし(以上は漱石)
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壮絶であり、爽やかでもある子規の生き死に。宿痾、ついに癒えず、三十五歳の一期を画す。明治三十五年九月十九日没。遅れること十四年、大正五年十二月九日、「文豪」と称された、漱石は五十歳の生を終える。
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