一所不在 漂泊流離の宇宙に生きた人

                四季山水図(毛利博物館)(⇑)
              四季山水図(京都国立博物館)(⇑⇓)

 雪舟(読み)せっしゅう[生]応永27(1420).備中,赤浜 [没]永正3(1506).周防,山口?

室町時代後期の禅僧,水墨画家。幼少時に出家し上京して相国寺に入り,春林周藤に師事して禅僧となる。諱 (いみな) を等楊 (等揚) といい,知客 (しか) の職をつとめるかたわら,周文に画法を学んだと推定される。 34~35歳頃周防,山口に移り,大内氏の庇護下に画房雲谷庵を営み,ようやく画僧として高名となる。元の禅僧楚石梵 琦の墨跡「雪舟」の二大字を得て雪舟と号した。応仁1 (1467) 年室町幕府の遣明船で入明,天童山景徳寺を訪れて禅の修行をし,第一座の位を与えられた。のち北京において礼部院中堂の壁画を描いて名声を博したと伝える。文明1 (69) 年帰朝。初め大分に天開図画楼を構え,のち山口に雲谷庵を再興し,以後ここを本拠として死没までの間に美濃,京都,丹後などへ旅した。遺作には『山水長巻』 (86,国宝,毛利博物館) ,弟子如水宗淵に与えた『破墨山水図』 (95,国宝,東京国立博物館) などの山水画,『鎮田瀑布図』 (76,焼失) ,『山寺図』 (模本) ,『天橋立図』 (国宝,京都国立博物館) などの風景画,『寿老人図』,『益田兼堯像』 (79) ,『慧可断臂図』 (96,斎年寺) などの人物,道釈画などがある。雪舟の画風は従来の日本画の抒情性を離れて,構図や広大な空間表現の巧みさなど,自然に対する写実的表現を特色とし,そこに禅僧のもつ真摯なきびしさが表出される。弟子に雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがいる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 四季折々に、何かを感じて無性にある人について考えたり、音楽を聴いたり、絵を見たりと、ある種の風狂に似た境地に陥ることがしばしばです。もちろん、たんなる気まぐれにすぎないのですが、この何十年もつづく、年年歳歳の紅葉狼藉や桜花乱舞に近い、ぼくの心持の狂気でもあります。この時期、雪舟に代表される「水墨画」などを一日中眺めていることがあります。もちろんよくわかって、そうしているのではなく、一種の気まぐれであることは先刻承知ですが、終日眺めて、まず飽きません。やや大ぶりの画集が相手ですが、それでじゅうぶん。時には新聞紙大の写真を壁に貼り付けることもあります。ある時は、部屋の壁を雪舟画の写真で一杯にしたこともありました。

 何がいいのだか。よくわからない。生没定かならず、生涯の軌跡も雲をつかむが如く、杳として知れない怪しさが、ぼくには魅力的なのかもしれません。まるで名もない絵描きの残した作品が歴史の風雪に洗われながら、いまなお存在し、その不分明な姿かたちをさらしているという風情です。あるいは、野の花の佇まいが、幽玄に映るということかもしれない。彼の作画が「国宝」になるというのも、保存に重きがあるという点では理屈は通りますが、常に「御目文字」が叶わない、国家の所有(国宝)となっているだけなら、「宝の持ち腐れ」になるほかないのです。ぼくは写真や画集で「干渉(あるいは、鑑賞か)」するだけで、まったく不満も何もありません。六百年の星霜を越えて、現前する一枚の「慧可断臂図(えかだんぴず)」に、ぼくは引き寄せられるばかりで、どんな美酒でも味わえない境地に浸ります。さて、慧可とは何者でしょうか。(天橋立図)(左上)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)