二兎を追うものは一兎をも得ず

 霜月に入り、立冬も過ぎたころ、この島は異様な好天に恵まれ、まさに「小春日和」という陽光に、衣替えの手を休めたのでした。この月二十一日(土)、ぼくは久しぶりに友人の訪問を受け、しばし旧交を温める機会を楽しんだ。少し時間があったので、予定になかった場所(パワースポット)に移動しました。そこは「上総二ノ宮」と親しまれた橘樹神社(茂原市本納)でした。これまでにも何度か訪ねていたところでしたが、今回は新たな「桜」が二本ばかり参詣路の片側、御手洗場の脇に植栽されて、今を盛りに(というか、すこし盛りを過ぎていたかな)咲いていました。やや小ぶりの可憐な花弁で、神社の方に訊くと「十月サクラ」だということでした。ぼくには初めての品種で、望外でしたが、老眼の保養になりました。

 「小春日和」の「小春」(将棋の坂田三吉の女房の名前でもありますが)、ここは「陰暦の十月」の意で、まさに今頃をさして使われたのです。まるで春先のように暖かな日が差す初冬の束の間を言うのでしょうが、永田町という辺鄙なところ(ぼくの住んでいる場所から見れば)では狂い咲きのような、あるいは仕舞桜の散り頻る、落花狼藉の醜悪さを見せられるかのように、深く静かに先行していただろう、東京地検の捜査状況が漏れ漏れで、島中に報道されたのです。意図的に流された政治ネタですが、旧悪にもならない、前総理の、ホカホカ、アツアツの不始末に「国権の最高機関」は驚天動地の大騒動を醸しています。それはまた、「勝(盛)者必衰の理」「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」で、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という陳腐きわまる世の掟の再認識です。「偏に風の前の塵に同じ」ですね、ご同輩。

 しかし、それ(地検)を動かした(手玉に取っていた)人物がいけシャーシャーと国会で答弁しているとなると、魑魅魍魎も舌を巻き尻尾を巻いて逃げ出すであろう。でも、ぼくが興味をもつのはそんなところに存在しない。国会で数年にわたり虚言を吐き通し、それを支援し支持してきた連中が、ただの一度も権力の腐敗に弓を引かなかった点、あるいは弓を引こうとさえしなかった不甲斐なさ・信頼に対する裏切り行為に胸がかきむしられるし、それを総理や官房長官が傍若無人にやり放題の乱痴気をしてきたのに、無批判にも、手をこまねいて許してきたぼくたち自身の無頓着・無関心に、言いようのない怒りが込みあげてくるのを抑えられないのです。これもまた罪ですね。

 ぼくは前総理が再登場した時にも「小さな文章」をどこかに書き、彼は「捲土重来」を期してきたから、無能だけど、取り巻きがそろったようだから、注意しなければならないといいました。下司の勘繰りでしたが、中らずとも遠からず、でした。最初の政権投げ出しは「脱税疑惑」を受けてのものでったことが明らかになっています。二度目は、史上最長の「悪政時代」の末期にふさわしい(とぼくは考えています)、刑事事件の処罰逃れのゆえに「敵前逃亡」したと思っています。疑惑は一つではないし、そのどれ一つとっても、万死に値する犯罪であったと、ぼくは推察しています。法を無視し、憲法を蹂躙したのですから。ぼくは「交通違反」を咎められ、どれほどの反則金を取られたことか、自分でいうのも癪ですが、なんとも可愛いものですよ。

 この問題が深刻なのは、二人の総理が事件の経緯をすべて知悉していたうえでの結果であるという点です。辞任発表に至る経過はすべて「自作自演」で、脚本を書いたのは「官僚」だったでしょう。その猿芝居にうまく使われたのがメディアでした。「身命を賭して政治を動かした総理」の辞任に、国民はもろ手を挙げて「万歳」と叫び、まるでここ数日の株価の如くに、彼の支持率が莫迦上がりをしたという、コミックでもあり得ないグロテスクな滑稽譚が生まれました。事情が分かってみれば、罪隠し(犯罪逃れ)の悪足掻きだった。人民の低能も極まれり、です。

 この塵屑総理の後を襲ったのが現総理です。(総理になろうなどという気にさせたのは、誰だろうか)この陰険な人物が、八年に及ぶ「最長腐敗政権」を「二人三脚」で通してきたのです。それ以上に、再登板の目(能力も)がまったくなかった前総理を「焚きつけた」のが現総理です。二人の罪は重い。前総理には数えられないほどの罪状が明らかになるはずですが、現総理にしても、同罪です。憲法や法律違反は言うまでもない。衆人監視(にあたらないのは、目を瞑っていたからだ)をものともせず、虚言をのべつ吐き出していたのです。二人三脚で「国会を愚弄」し、「国民を罵倒」したことは許されないし、それを支えてきた多くの支持者(国会議員、官僚、選挙民、経済人など)の責任もまた問われなければならないでしょう。(アメリカの大統領選挙を嘲笑したのは誰だったか。「他山の石」というのも烏滸がましいのですが、以て「自戒の素」としなければならなかったのです。対岸の火事だといっていた、足元が崩れていたのです)

 特捜部の捜査がどのような展開をたどるか、ぼくには判断できない(こうなればいい、という希望はあります)が、このあたりで、旧弊はすべてご破算で願いましては、と行くならそうしたいですね。つまりはリセットです。でも「国破れて、山河あり」で、この塵埃の坩堝からしか出発する場所はないのです。廃墟からの「出直し」に、ぼくたちは我が道を見出すほかないのでしょう。

 この島では、ますますコロナ禍が拡大増殖しています。外に出るな、早く家に帰れ。でも、旅行に行って、飲み食いをしろ。右から左から、両足を足を引き離すようなでたらめぶりです。いったいこれを政治、政策などといいえるのか。マスクをして飯を食えとは、どういうことだ。「ズボンをしたまま、小便をしろ」というのですな。なんでまた、こんな中途半端な税金の配り方(山分け)をするのか。「ダメマスク」配布と同様の愚策で、税金を溝に捨てる愚策です。本当に必要とするところに届かず、旅行したり飲み食いできる金のある人にしかまわらない。ずいぶん昔、「貧乏人は麦飯を食え」といった総理大臣がいました。今では麦飯さえ口に入らない、貧窮に喘ぐ多くの人がいます。高度先進国と称する島の真ん中で、飯を食えない人が無数にいるという現実に、ぼくたちは立ち向かわなければならないのです。権力亡者やそれに取り巻かれたたい輩には、塗炭の苦しみに責めさいなまれている「無辜の民」が目に入らないに違いない。

 これはいつもどんな場合でも感じ入るのですが、いわゆる「政府系審議会」に連なる面々の脂(やに)さがった顔つきです。おそらく頭の中も脂ぎっていると思われます。この問題でいえば、「新型コロナウイルス感染症対策分科会(尾身茂会長)」が、何か知らぬが、対策だか方針を出しているとみられますが、結局は無能をさらしているばかりです。各人の無能はかまいませんが、その余波で多くの人民がいらぬ苦心や苦悩に陥っているのです。原発問題で、あからさまな「人命棄損」を進言してはばからなかった連中の悪態を、ぼくたちは見せつけられてきました。なんでも「中心部」に近づくことは、それだけ疚しい、或いは卑しい根性を持っていることの証明かもしれない。ぼくにはそんな「根性」がないので、これは当て水量です。いい加減にしてくれと、ぼくは言います。何をしたくて、そんなところにいるのかな。

 政治の要諦は「国民のいのちを護る」ことだと、生意気な口を利く総理大臣に、悪臭立ちこめる「権力」よりももっと大事な人の誠、誠実というものがあることを知らせることができるでしょうか。生きるに値する「人間の生活」には比較(優劣)を拒絶した厳粛さがあるということを知らしめることができるでしょうか。この点に関して、ぼくは初めから諦めています。ないものねだりは無駄なことです。ぼくには余力はありません。金もない。体力もない。つまるところ、余力はないが、自らの分に応じた按配というものがあります。必要とされる人に、ぼくのできる範囲の心配りを送り届けることです。ぼくはこんなことをしています。どうか褒めてくださいというのではないし、いいたいのでもありません。これまでも「貧者の一灯」をささやかに燈してきたし、これからも、「ささやか」は変わらないというばかりです。

 ともすれば、あれもこれもと、ぼくたちは欲張ります。現状に照らせば、コロナ感染を抑えたいし、経済も動かしたい、と。悪い政治家を退散させたいし、政治にあらたな顔ぶれを求めて、この島の再生を期したい、と願いは多いができるのことは一つです。大切なのは、一時に一事を。「口を開いたままで、イーと発音する」のは無理なんだ。ぼくにもできる最善の策はあるか。あるとして、いったい何か、それを素人として考え抜こうとしています。(この期に及んで、税金で国民を誑かして解散を打つという、度し難い政治屋もいるのです。政治家を名乗る偽物の虚言に「いのち」を奪われないように)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです