文化(culture)は自然から生じます

「君、花はなぜ美しいか」。建築家の中田準一さんは師である前川国男に問われて、答えに窮したと著書に書いている。しばらくたってから「それは、自らの責任でそこにあるからだよ」と教えてくれたという▼建築物は特定の敷地を前提に設計される。そこで建築家は、整合性ある全体のバランスを一番に考える。花は全てがバランスよく自らの責任で存在しているが故に美しい…。やや分かりにくいが、そんなふうに中田さんは解釈した▼前川が手掛けた建築物の多くは、木々の間に見え隠れし、周辺のたたずまいに同化している。周囲の情景を取り込む設計に意を用いているからだ。歳月を重ねるほど環境に一体化していくのが前川建築の最大の特色だという▼晩年の前川が設計した宮城県美術館も同じだろう。緑豊かな自然の中にある伸びやかな建物は、来館者にとって安らぎのある空間だ。これまで通り、美術館として存続することが決まって胸をなで下ろしている人は多いに違いない▼美術館に行くのは展示物を見るだけではない。建築そのものも鑑賞の対象となる芸術作品。設計者が意図したもの、現代建築における意義、他の作品や略歴-。鑑賞のガイドとなるせめてパンフレットでもあれば、この美術館に対する理解はもっと深まる。(河北新聞・2020/11/18) 

 宮城県美術館、移転せず現施設改修方針 県民向け説明会28日県庁で開催

 県美術館(仙台市青葉区)を仙台医療センター跡地(宮城野区)に移転新築する構想を断念し、現施設を改修する方針に転換した県は28日、県民向けの説明会を県庁講堂で開く。/ 県が検討した(1)県民会館、みやぎNPOプラザとの移転集約(2)現地での増築(3)現施設の改修のみ-のリニューアル3案を巡り、担当者が利点や課題を示し、現施設の改修案に決めた経緯を説明する。質疑応答も行う。/ 説明会は午後1時半から、1時間半程度の予定。先着200人。16日に募集を始め、県震災復興政策課のホームページにある電子申請システムで申し込む。/ 連絡先は県震災復興政策課022(211)2478。(同上2020年11月17日)

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 美術館は1981年に開館された。設計は前川国男。1990年には佐藤忠良記念館も増設された。ぼくはまだ館内に入ったことはありません。外観は前川さんのものとしてよく知っていましたし、佐藤さんもとても好きな彫刻家でしたから、いつかは行く、行きたい、そんな期待をいだきながら、これまでは訪問できないままで、この年まできてしまいました。残されるということなので、自分の脚で歩ける間に入館したいものです。

 開館して、四十年です。地域の様々な事情があるので、軽々に判断できないし、ぼくごときが何かを言うのは適当ではないという思いがします。しかし、既存施設の移転や新築などなど、この島のさまざまなところで同様の問題が生じているのです。有名建築家の設計だから残すべきだという考えはぼくにはないし、むしろその反対に、いくら高名な建築家のものであってもダメはダメ、という意見です。その好例は、この数年間東京五輪に向けて、国立競技場の取り壊しと新築問題がありました。ぼくはまず、都内のど真ん中にこんなどでかいものをつくる事には賛成しないという意見です。醜悪そのものです。個人の考えだから、なんとでもいえますが、税金だからいくらでも投入できるし、好きなだけ贅沢なものを作ろうと思えば可能でしょうが、いかんせん、国立競技場は「無用の長物」の代表格です。新築なった競技場の年間維持費が約20億円超だとか。そこでAKBだか、嵐だかのコンサートでもしますか。 

 競輪場や競馬場、あるいは野球場や賭博場などを都心に作るなどというのは「バカの骨頂」ですが、そんな無恥・無知な奴が勢いを得ているのがこの島社会です。東京都庁に何度か呼び出されて出かけた経験があります。なんというお粗末な建物かと驚嘆したことがあります。それでも外観はいいんですかね、何かあれば、都庁舎が映し出されるのです。みかけだけで、まさに「コケオドシ」だった、というのがぼくの本音です。設計は丹下健三。さもありなん。建てたいものを建てるのが設計屋だという根本精神が、ぼくには気に入らなかった。ともかく竣工直後から「雨漏り」が激しい、と聞いた。余計なことは言わないが、いったん造れば、というより、立てる前に用途や強度、耐用年数などを考慮するのは素人でもわかりますが、専門家はそうは考えないらしい。宮城美術館は築四十年でした。ぼくが住んでいた小さな木造住宅は築三十五年、まだどなたかが住んでいます。

 建物にかぎらず、モノを大事にしないというか、粗末にしすぎる風潮は、いったいどこまで行くのでしょうか。こんなに粗大ごみを出す社会は、どこかが激しく病んでいるに違いないと、ぼくは以前からみなしていました。粗大ごみを平気でに野原や林、あるいは山道にまで捨てる。無機物を粗末に扱う趨勢は、必ず「有機物」にまで及ぶのです。住める、使える建物は大事に残す、使える道具。機械類は寿命が来るまで愛用するという姿勢や態度は、人間社会を潤す潤滑油の働きを為しているともいえるのです。(詳細は後日)

 法隆寺を持ち出しては白けますが、コンクリート建築が四十年五十年で壊される運命にあるというのはどういうことか。政治や行政の都合上、こんなところに「鎮座」していては邪魔だということでしょう。これは建物ばかりではない。地名などもびっくりを通り越したお手軽さで、イロハか、東西南北だとか、あるいは甲乙丙丁(拙宅の隣町に存在します)という地名地番をふりたがる。その感覚のなさに、住んでみる気もしないのです。それと同様に、建物の由来とか歴史というものを一切無視すれば、いつでもどこでもお手軽で取り壊しも簡単な建物が作られるばかりです。仮設住宅(コンビニ店舗に代表される)は、じつは永住住宅だったということになりそうです。雨露をしのげれば、それで十分という、急場しのぎがあるのは承知していますが、美術館や図書館もまた、それと同じだという発想は情けない限りです。

 地域の実情にふさわしい建物(もちろん内容を踏まえた上での話)、これを作るのも維持するのも、そんなに簡単ではなさそうです。飽きたから壊す、金があるから新築する、邪魔だから移転させる、いろいろな理由で物を大事にしない風潮が「文化」の領域にも入り込んできています。ダラダラ書いていても仕方がありませんので、結論にならないが、手短に言っておきます。

 いったん建てたら、手を尽くして維持管理に心がける。時間の経過とともに、建物でさえいのちを持ち、呼吸するのです。まして建てるのと同じくらい壊すための経費がかかるような愚策愚政は、金輪際やめるべきだ。美術館や博物館、あるいは演奏用ホールなども、身の丈にふさわしく、じゅうぶんに用途にみあった建物が欲しい。全国いたるところにある「文化会館(ホール)」はまるで新幹線や飛行場と同じで、どこも規格はいっしょというのは戴けないね。「文化」というものはコンビニの商品じゃないからね。

 だから、自己意識の強すぎる建築家には設計を依頼しないこと。音楽でも映画でも美術でも彫刻でも、それぞれが、居心地がいいという建物や場所があります。それを抜きにして建てられてはかなわない。それから、費用との兼ね合いですが、なんでもかんでも混用(多目的)するのも、ぼくはいやだな。そんなところには音楽を聴きにはいかないさ。というわけで、語るに堕ちた話になりましたが、「文化」は「個性」なんだ。

 子どもに大人用の服が合わないように、地域地域の実情(事情)を考慮しない、どんな政治や行政も住民のためにならないと肝に銘じてほしいね。ぼくが住んでいる町の役場(右上写真)は立派な建物ですし、議場は日当たりもいい。でも行政の質は、はたして及第と言えるのだろうか。政治にこそ「文化」という視点は欠かせないね。文化というものは「自然(環境)」を足場にして初めて成り立つものです。

 再言します、コンビニ(の建物や商品)は「文化」じゃありません。(十一月十九日・午前七時半過ぎ)

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 さて、前川さんの問い「君、花はなぜ美しいか」についてです。早朝に猫に食事を与え、それからブログで駄文を綴り、というルーティンワークを朝飯前にこなして後、ようやくかみさんが起床してきて一緒に食事。「おいしいね」とは言わない。どんなものでも美味しくいただくから。まずいものは口にしない。

 それから、猫の住まいの修理です。住まいは「文化」の代表格ですから、あだやおろそかには作れない。今春以来、栄枯盛衰、生者必滅、増減多端で、ただ今七人と数えます。一人のみが人間と同居(ひどい風邪を引いたのが、さらに悪化したので)、他は別居です。すべては「野良(のら)」というのでしょうか、飼い主がいたのですが、面倒をまったく見ない(らしい)ので、ぼくんちへ来たというわけ。猫たちとのお付き合いもなかなか大変です。数日前には生後一か月少しの子が亡くなりました。合掌!

 というわけで、いろいろと猫にも環境の変化(気分転換)が必要と彼や彼女らが想ったか、それを受け止めて(ぼくが勘違いして)新しいのを作ろうとしていたのです。すべて段ボール製の手作りです。今ほぼ完成させて、布団を日に当てて、取り込む前の時間を利用して、前川さんの問いの前で「静座」したつもりで考えています。(下手な考え、休むに似たり)(ニトリは島忠をTOBです)

 「君、花はなぜ美しいか」とは「それが美しいと感じるこころが、観る側にあるからです」とぼくは答える。それでじゅうぶんだ。それから「そこにある花、それは自然環境に合致しているから、自らの個性を、誰にも遠慮しないで伸ばせるのであり、それがまた美しさのもとになっている」とぼくは答えます。「それは、自らの責任でそこにあるからだよ」と前川さんは言われたが、それは少し強引で、「花の責任」というのが腑に落ちない。あえて、「そこに、じっと動かないで」という状態を、前川流に言ったのだと受け取ります。鉢に入れたり、盆栽にしたり、切り花にすると、途端に花の美しさは消えてしまうという意味でしょう。(余計なことながら、一言。「花の美しさ」というものは存在しない。「美しい花」があるだけじゃないでしょうか。あるい、ある花を美しいと感受する感覚があるということです)

(高嶺の花だ)

 ここまで来て、ようやく「建築物(建物)の美」に近づきました。美しい建物とは、「それは、自らの責任でそこにあるからだよ」というのは、つまり人間の都合で処理したり処分してしまえば、「建物は美しくなくなる」ということでしょう。壊したり、建て替えたり、移築させるのは怪しからんと言っているのではないのです。「建物の責任でそこにある」という意味は、建てられてしまえば、建物から動き出すことはできないというだけのこと。そこに、じっとして時間の経過を俟つうちに、「いよいよ建物は美しくなる」という前川美学ではなかったか。宮城県当局に、そんな美学があったかなかったか、どうですか。(鴨長明の「方丈庵」は、持ち運び可能な「プレハブ」でした。リヤカーに載せて、手軽に引っ越しできたんですね。

 「文化遺産」「文化財」などと言いますが、いつかきっと、それは自然に朽ちていくものです。朽ちるに任せるのも、朽ちる前に壊すのも人間の都合です。それは花の運命と同じですね。ぼくはやたらに化粧を施してまで(修理に修理を重ね、リフォームを凝らして再生を図る)、長持ちさせるのはどうかと考えています。「美容整形」とは名ばかりという実態があるんじゃないですか。「壊れる家は、自分の悲しさを知らない」と、パスカルという人が言いました。(同十時二十分)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。