新聞は政府の機関紙でいいんですか

 余録「真実もあの毒された器(である新聞)に入れると怪しくなる。新聞をまるで読まない人間は読む人よりも真実に近い」。こんなことをいう米国大統領といえば、今ならばメディアを「偽ニュース」とののしるあの人を思い浮かべるだろう▲ところがこれ、米国の建国の父で第3代大統領、報道の自由や人権を定めた憲法修正条項(権利章典)の生みの親ともいえるトーマス・ジェファーソンの言葉という。その彼にして奴隷の女性との間の隠し子スキャンダルを追及する新聞がよほど憎たらしかったのか▲奴隷制に反対しながら、大農場で多くの黒人奴隷を使役していたように白黒矛盾した面のあるジェファーソンだった。新聞についても先の言葉とは正反対の「新聞なき政府か、政府なき新聞か。いずれかを選べと迫られたら、ためらわず後者を選ぶ」との言葉もある▲こちらは一部メディアを「国民の敵」と断じ、共和党の重鎮からも「独裁者はそうやって物事を始めるものだ」と非難されたトランプ大統領だ。だがその後も報道官の懇談から一部のメディアを締め出し、記者会恒例の夕食会の欠席を表明するなど対決姿勢を崩さない▲入国禁止令を司法に葬られ、人事も迷走する新政権である。今やメディアとの対決は「トランプ劇場」の貴重な当たり演目なのだろう。だが建国の父の醜(しゅう)聞(ぶん)を追った昔からメディアの方もヤワでなかった。もうこの先、安定した政権運営は望んでも得られなくなろう▲言論と報道の自由は権利章典の第1条が掲げる米国文明の魂である。新聞をくさすのはともかく、自由を守る闘いを侮っては大統領も長くはつとまるまい。(毎日新聞2017年2月28日 東京朝刊)

 新聞・TV「政府の言いなり」の何とも呆れる実態 まるで大本営発表、コロナ禍で露呈した歪み

「お上のお墨付きがないと、今がどういう状態なのか、判断できない」「感染が確認された事業者自身がサイトで発表しているのに、行政が発表していないと掲載しない」――。新型コロナウイルス感染拡大に関するニュースが大量に飛び交うなか、報道機関の働き手からこんな声が続出している。日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)が実施したアンケートで判明した実態だが、まるで第2次世界大戦の時代を彷彿とさせる“令和の大本営発表”とも呼べる事態ではないか。研究者らの厳しい見方も交えつつ、大メディアがほとんど報じなかったMICアンケートの内容を伝える。

MICは新聞労連や民放労連などを束ねた組織で、マスコミ系の労働関係団体として日本最大規模になる。今回は2月下旬から「報道の危機アンケート」を実施し、214人から有効回答を得た。このうちネットメディアやフリーランスなどは15人しかおらず、回答者の多くは新聞や放送の現場で取材・報道に携わる人たちだ。

「あなたが現在の報道現場で感じている『危機』について教えてください」/ その問いに対する自由記述での回答からは、さまざまな“危機”が見える。

・国会論戦を放送しなかったり、あるいはやっても短い。官邸記者が政権に都合の悪いニュースを潰したり、番組にクレームをつける。これは日常茶飯事。官邸記者が政権のインナーになっている

・ニュースソースが官邸や政権であること。その結果、番組内容が官邸や政権寄りにしかならない。彼らを批判し正していく姿勢がまったくない。というか、たとえあったとしても幹部が握られているので放送されない

・上から下まで、忖度と自主規制。事なかれ主義。サラリーマンばかりで、ジャーナリストはいない

・「過剰な忖度」であると現場の制作者も中間管理職もわかっていながら、面倒に巻き込まれたくないとの「事なかれ主義」が蔓延している

こうした最中、首相官邸報道室は4月上旬、官邸記者クラブに対し、新型コロナウイルスの感染防止策として、首相会見に出席する記者を1社1人に限るよう要請した。海外メディアやフリーランスの記者は10席しか割り当てがなく、希望者が多いと抽選となる。MICによると、報道室による要請以前、会見場には130程度の席があったが、現在は29席に絞り込まれている。平日に1日2回開かれる官房長官会見についても、同様に記者数に制限が設けられているという。

(「法に違反して」が正しそうです)

・コロナとの関連で会見がかなり制限され、入ることさえできなくなったものもある。不都合な質問を受けて、できるだけ答えを出したくないという意図も感じる

「医療崩壊と書くな」と言われて

コロナ問題に関する回答では、見過ごせない記述も並んでいる。

・記者勉強会で政府側から「医療崩壊と書かないでほしい」という要請が行われている。医療現場からさまざまな悲鳴が聞こえてきているので、報道が止まるところまでは行っていないが、「感染防止」を理由に対面取材も難しくなっており、当局の発信に報道が流されていく恐れがある

・医療崩壊という言葉についても、政府や自治体の長が「ギリギリ持ちこたえている」と表現すると、それをそのまま検証もせずに垂れ流してしまっている。実際の現場の声よりも、政治家の声を優先して伝えてしまっていることに危機感を持っている。お上のお墨付きがないと、今がどういう状態なのか、判断できない

・感染が確認された事業者自身が貼り紙やサイトで公表しているのに、行政が発表していないと(うちの新聞は)掲載しない(以下略)(Toyo Keizai・Frontline Press ・2020/04/27 12:40)

●Frontline Press=「誰も知らない世界を 誰もが知る世界に」を掲げる取材記者グループ。調査報道や手触り感のあるルポを軸に、新しいかたちでニュースを世に送り出す。取材記者や研究者ら約30人が参加し、2019年5月に正式発足。代表は高田昌幸・東京都市大学メディア情報学部教授。スマートニュース社の子会社「スローニュース社」から調査報道支援プログラムの支援を受けている。

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 新聞の価値がもはや地に落ちるのを止めるすべもない、まさに没落・落日の憂き目を見ているこの島にいて、新聞になにかまじめな要求や期待をすることは、どんなにもがいても抜け出せない蟻地獄にハマった犠牲者の敗北の泣き声としてしか聞こえてこないようです。新聞は腐っているといいたいし、「腐っても新聞だぞ」という再生というか、紙価に見合った記事くらいは書いてくれ、と言いたい気もします。腐っても鯛という俚諺も、相場どおりにぼくは受け取ることはしません。鯛であれなんであれ、腐ったら、捨てるほかないのです。新聞も同じ。いや新聞は腐らないから、正確に言えば、流行らない、あるいは読まれないというのですね。読まれない新聞ってなんじゃと、ぼくは訝るばかりです。「読んだら売る」から読売新聞か。毎日読まれなくても「毎日新聞」であり、夜になっても「朝日新聞」というのは遅配の見本のようです。(「大学出」が、各社軒並みの共倒れをもたらした)

 これまた腐敗・腐食しきった政治権力に魅かれてか、自ら飛び込んでか知らないが、新聞各紙はもろ手を挙げて、右に倣えの挙句に、政権周辺に靡いてしまったのです。こんなことはいつの時代にもあったかもしれず、知らないのはぼく(たち)だけだったのかもわかりません。新聞にやたらな期待やあり得ないような希望を勝手にいだいたばかりに、かかる不如意に遭遇して、まるでなす術もなく路頭に迷っている状態にあります。明治初期の「新聞紙のあけぼの」時代を垣間見るに、政府にピッタリだったり、より近くに「ダルマさんが転んだ」よろしく、歩一歩とにじり寄ったり、その逆に「不倶戴天の敵」とみなしたかどうか、それなりに政府批判に血道をあげた新聞などもありました。ぼくは「東雲新聞」のいくつかの記事を図書館で読んだことがありますが、新聞紙条例違反だとか讒謗律とか何とかで、遂には主筆は東都を追放されるに及んだ。誰あろう、中江兆民でした。(明治21年(1888)大阪で創刊された自由民権派の新聞。中江兆民を主筆として人気を博した。同24年廃刊。)(デジタル大辞泉)

 ぼくはまだ中学生か高校生の初めころまで、新聞記者になろうかなと考えていた時期があります。どうせ「テレビ」の影響だったと思う。「事件記者」(右上写真)などという番組が、驚く勿れ、N✖Kで放送されていたのです。まるで刑事のように「事件」の「ホシ」を挙げるばかりの刑事・新聞記者二役張りの活躍に胸を躍らせていたのでした。今はそんな少年時の感情もすっかり失せて、当節の新聞記事はいったいなんだと、一人前の口を利くばかりです。(●事件記者(じけんきしゃ)は、NHKが製作し、1958年から1966年まで放映されたテレビドラマである。/ Wikipedia)

 「新聞なき政府か、政府なき新聞か」という前提がそもそも間違っています。それはともかく、ここでいう「新聞」とは「政府(権力)」を批判する機能や役割を持っているものだという、常識だか良識がものを言わせています。もしそうでなければ、新聞はすべからく「広報誌」でしかないことになります。今の状況で新聞の役割は「政府」の広報であり、「国家権力」の官報をもって任じていないでしょうか。腐ったとはいえ「新聞」であり、読まれない「新聞」である価値は十分にあるのでしょう。この劣島にいったいどれくらいの新聞(と称する媒体)があるのか。おそらく数千はくだらないと思われます。

 今はネットの時代、ならば新聞の比ではなく、日々無際限に発生してくるネット新聞という「ニュースソース」があります。ぼくは目をとおすのはすべて、この方面ですから、フェイクもあれば、誤報もあり、誹謗中傷や罵詈雑言には事欠かないのは周知の事実です。だから「新聞」という曖昧な呼称で「腐っても新聞」などと言っても埒が明かないのでしょう。そもそも政府が発表するニュースが真偽定かならずですから、それを報じる新聞に何かを望むのは無駄の骨頂です。ことの真相を解明する機能や役割を放棄したものを、ぼくは新聞とは呼ばないことにしています。新聞(に代表される報道機関)は「(権力の)拡声器」では、断じてないからです。そうであってはならないからです。

 民主主義という屋台の両隣りは「全体主義」、「ファシズム」、であり、その周囲には「付和雷同派」が蝟集しています。行きつく島もない、それが民主主義です。首領交代において、俺の次はあいつにやらせようという、一瞬の隙をみせたり、誤った判断をくだしたのがとんでもない方角に船を向かわせることになる。どこまで行っても民主主義はシューベルトなんです。つまりは「未完成」という。そのこころは、経過や中途に意味があり、努力が求められるというのです。今日の一歩は昨日からの続きであり、明日の行方は前の日に定められているのです。

 ここまで来て、さて新聞とは何ですかと、あらためて自問する。時代はネット万能に移行しています。新聞も「ネット」だね。「オンライン」などと、各紙も、一応は時代に歩調を合わせています。しかしそこに見られる記事は、「大本営発表」でしかないとしたら、やっぱり「時代遅れ」というのは正当な評価ですな。それではまったく「お呼びじゃない」ですよ。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)