粛清 英雄 国葬 それを支持する世論(操作)

(2020年11月10日 日刊ゲンダイ1面」))

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 余録 不気味で奇怪な映像である。群衆が詰めかけた公開裁判。被告は皆、素直に罪を認める。死刑が宣告されると、傍聴者は歯をむき出して笑い、歓声を上げ手をたたき合う。しかし、事件はでっち上げだった▲旧ソ連の独裁者、スターリンが、大学教授や技師らを「資本主義の手先」として見せしめにした「産業党事件裁判」(1930年)。社会主義体制への転換を印象づけるため、自由と議会制を信奉するエリートたちが「国家転覆を企てた」というストーリーを仕立てた▲実録フィルムを編集したドキュメンタリー映画「粛清裁判」が公開中だ。真っ先に知識人が狙われた。大衆が独裁者のウソを支持したからだ。味をしめたスターリンは、やがて大粛清に乗りだし、民衆も膨大な数が処刑されるのに▲それでもスターリンは53年、権威の絶頂で亡くなった。広大な旧ソ連各地で数千万人が「偉大な指導者」の死を嘆く記録映画「国葬」も同時公開された。3年後に大虐殺者として告発された「英雄」を悼む人々の表情は、裁判と反対に沈んでいる▲スターリン時代の始まりと終わりを、熱狂と厳粛さで表象する2本の映画は、独裁体制を支えたのが他ならぬ群衆であった事実を映し出す。主役はスターリンではない。名もなき無数の人々の顔である▲日本学術会議問題で、菅義偉首相の説明に多くの人が納得していない。だが、世論調査で任命拒否を問題視する意見は少数派だ。縁遠いはずの異国の古い映像が、妙に生々しく迫ってくる。(毎日新聞2020年11月16日 東京朝刊)

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  はたして「スターリン」がこの地上に亡霊としても存在しているのかどうか。権力を握った政治家は「きっとスターリンなんかになるまい」と言っては見るものの、「権力」を志向すること自体、すでにスターリンの体質をいくばくかは持っているといえるのかもしれない。スターリン的体質とはなにか。これも簡単に言うと、他人の意見を聞く耳を持たない、つまりは「唯我独尊」という性向を帯びているということでしょう。まさか、と非難もされようが、人を支配したいという感情はだれにでも備わっているが、それを実行する(できる・したくなる)かどうかはまた別次元の問題となります。

 政治とは「力によって、相手を支配する行為」とすれば、どんな人間にもその片鱗は伺われます。だが、向き不向きや欲望の多寡によって「政治的人間」となるかならないかが分かれるのです。「非政治的人間の政治的思想」もあれば「政治的人間の非政治的思想」もある。面倒なことは言うまい。おのれの言葉や命令に他人が従えば、気分はいいなあ、従わせられる力を持ちたいなあ、という人間は、まさしく政治的人間です。スターリンは極端だったというのではない。いったん権力を掌握すれば、行くところまで行きたいというのが本能だからです。途中で挫折するかどうか、それは運命のようなものが左右するのです。

 粛清と熱狂という二つの狂気は自他の内部に必ず宿っているものです。粛清は大なり小なり、程度の問題です。自分の考えに逆らう人間を懲らしめたいと望む、それに逆らうやつは消してしまいたい、それにも反対する奴は抹殺する。程度問題であればこそ、発端においては同じ性質を持っていることを否定できません。まさか、この時代にこの島で「スターリン的」なものがあるはずないじゃんというのが各種の「世論調査(操作)」の示す内容です。「そうは思わない」という曖昧なニセ・過誤判断が、やがて「熱狂)」生まれ変わるのはたやすいことです。熱狂を覚ますのは熱狂ではありません。自制心、あるいは注意力です。「俺は何をしているのか」「わたしはどういう行動をとっているのかしら」という反省や自省の働きが「自分を取りもどす力になるのです。

 「学術会議の会員」任命拒否は「まあいいじゃん」とか「それはまずいかも」とか煮え切らない結果がきっと出るように操作されます。ぼくに言わせれば、世論調査(操作)の結果は「半信半疑」という鵺(ぬえ)のような姿を示しています。二者択一ではないところが味噌だけど、よく見れば、必ず二者択一になるのです。「いいか、わるいか」「正か邪か」「善か悪か」となるように方向(求める答え)が見えてきます。

 任命拒否問題について、いろいろな観点から論じられているようですが、核心部分をついていると思われるものは極めて少数だといいたい。どこに核があるか、じつに単純明快です。法律違反を平気で犯している、その一点に尽きます。学術会議法をまったく無視しているのです。さらに言えば、口先三寸で法を融通無碍に扱うという、考えられない暴挙です。「俺が法律だ」「私がダメだと言っているのだから、それはだめなんだ」という「三百代言」が通用しているところにこそ、ぼくは問題の核があると思う。それがたまたま「学術会議」だったから、「学問の自由の侵害」ということになっているのです。法を左右する権力とは、それを暴力というしかないのです。その実例は、島の隣近所にいやになるほどあるじゃないですか。

 「日刊ゲンダイ」なんてという向きがあるようですが、ぼくは長年の愛読者です。発刊以来、です。それこそ「正も邪も」という類のタブロイドだし、「清濁併せ呑む」風の日刊紙ですが、今の時代、いいたい事より言わなければならない事をまったく言わない新聞報道が充満しているからこそ、ぼくは目を通したくなるのです。ある意味では、報道界の「ゲリラ」ですね。極めつけの少数派ですが、時には光るものがあると、ぼくには見えます。着るものや持ち物やで、人を判断したくないように、部数やページ数で判断し、肝心の内容を洞察しないのは、観光に出かけて、風景を見ないで写真を撮って行った気になるような、滑稽無粋が露出しているようなものです。(上掲の「見出し」で「小学生並み」と、総理を貶めているのでしょうが、これは戴けない。小学生が怒るよ、「あれほどじゃないぞ」と。比較するのも簡単じゃないですよ)

 こうしている間に、政治的暴力の潮目がいよいよ反転し、気が付けば、諸人の足元を浸しているという事態になりますね。「戸締り用心、火の用心」はまだいいとして、「マスクをせよ」「外出はするな」「飲屋に行くな」と、塵まがいの権力が背広を着て監視に奔走するようになる。「自粛警察」とやらもまた、塵塗れの一種類ですね。いよいよ我が島の未熟デモクラシーは「衆愚」を待望するし、衆愚をこよなく愛するのは「表面の正義派」です。報道が先導役をきっと務めます。それに乗っかっていくと、その先に、ファシズムに変身じゃない、権力が生来の正体を現すでしょう。この島も、小は小なりに、全体主義の一歩手前にあるようです。任命問題より学術会議自体に問題があるから、それを議論しようと助け船を出す輩はいつでもつるみたがるし、甘いものに集(たか)りたがるし、獲物のおこぼれにあずかりたがります。「大枚の税金を使ってるじゃないか」「潰してしまえ」と天に唾の愚挙のかぎりです。それは「死体に群がる」ハゲワシです。(「例」に持ち出された者が怒りますか、あるいは「質の悪い政治家のようだ」では同語反復だし)

● ゲリラ=不正規武装団体の行う変則的戦闘行為,遊撃戦,転じてその組織をもいう。小戦闘を意味するスペイン語の〈ゲリリャguerrilla〉が語源。19世紀初頭のナポレオン戦争でフランス軍を撃破したスペイン国民の抵抗戦に由来する。正規軍の戦闘を補完し,その勝利に多大な影響を与えた。20世紀に入り人民解放戦争の中では重要な戦術となった。(百科事典マイペディア

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです