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この島ではgo to トラベルが出発進行中で、合わせてコロナ感染も踵を接して、急増中であります。永田町や霞が関では「学術会議会員任命拒否」で「国会や総理の空虚さが暴露拡大中」で、窮地に陥ったと判断したかどうか、政権与党周辺は「一月選挙」の狼煙を上げて「無能総理」隠しに奔走する。一方の西欧はどうかと一瞥すれば、いずこも同じ「秋の夕暮れ」です。いったい、はどんな風の吹きまわしなんでしょうか。


フランスはトゥールーズ発の、この写真です。いったん収まりかけた感染者数も、ここに来て急拡大とあれば、ロックダウンもやむなしという政府の施策に「断固反対」と立ち上がった、いな、座り込んだのです。あるいは寝ころんだ。効果があるかどうか、ぼくには判然とはしないが、「座して、死を俟つ」のは潔くない、可能な限りで抵抗したいと、「寝て、転んで、横になって」と、権力に対する抵抗のスタイルもさまざまです。「抵抗するは我にあり」というのが、切羽詰まった民衆のたった一つの生存権の行使です。この抵抗の先駆者として、フランスには赫々とした歴史があります。

コロナに対して「一丸となって」と行かないのは、それだけ個人の権利が進化・拡大したからだといえますが、この先、いったいいかなる道が残されているのか、けっしてフランだけの問題ではないし、まさにぼくたちの現在に生じている難問でもあるのですが。肝心の問題の核心いから「目をそらされて」、まるで漂流する難破船のように、ぼくたちは右往左往(go to ですか)と漂うばかりです。
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづこもおなじ秋の夕暮 良暹
寒風吹きすさぶ秋の夕暮れは、いずこも同じかもしれないが、同じでないのは人情・浮世の義理でもあるのです。人それぞれに思いや寂しさは異なるでしょう。しかし、そこから抜け出す道もまた、人それぞれに求めるほかはないのでしょうか。思いを異にしつつ、権力に向かうための連帯の証はどこにあるのでしょうか。「義理が廃れば、この世は闇さ」
五人での会食はダメで、四人までならいい。東京五輪は「コロナに打ち勝った証」として必ず開催すると、バカが遠吠えをしていますが、どこの世界に「コロナに打ち勝った国」があるのか。嘘もここまでくれば、もはや手遅れだし、いかなエクモも太刀打ちできないでしょう。感染するもしないも本人次第という。死ぬも生きるも、ねえ、お前と歌ったのは「船頭小唄」ですが、一端の船頭が無知で無恥、無能で虚妄ならば、そこに住まう住民はどうしたらいいのか。

己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき) 同じお前も かれ芒 どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れ芒 死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに 何変(かわ) ろ 己もお前も 利根川の 船の船頭で 暮らそうよ 枯れた真菰(まこも) に 照らしてる 潮来(いたこ) 出島(でじま) の お月さん わたしゃこれから 利根川の 船の船頭で 暮らすのよ なぜに冷たい 吹く風が 枯れた芒の 二人ゆえ 熱(あつ) い涙の 出た時は 汲んでお呉れよ お月さん ( 1921年(大正10年)1月30日に民謡「枯れすすき」 として野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲した)



(余談として やがて福島発の「汚染水の海洋投棄」は世界中で非難の的になり、あらゆる責任を追及される事態にいたるのは必至です。この島の住人は深刻な海洋汚染、海産物汚染の桁外れの責任問題から免れられない。「日本政府標準」が、どんなにいい加減で、手前勝手な代物であるかが明瞭に暴露される時期が背後に迫っています)(この問題について、遠からずぼくは言及するつもりです)
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