分け入っても分け入っても朱い山

全山燃ゆ 祖谷川上流では淡い光を浴びて錦に染まる山々が映える=三好市東祖谷(徳島新聞・20/11/09)

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 日本三大秘境の一つとされる「祖谷(いや)」、こんなに観光化されても「秘境」なんだと、驚きます。それって「卑怯」じゃないかとは言わない。ちなみに、残りは「岐阜白川郷」、「宮崎椎葉村」らしいが、いずれも「三大秘境観光地」に変貌しています。これをご同慶の至りと言っていいのでしょうか。

 「秘境」の秋景色。正確を期すと、「元秘境」ですね。この秋の景観やスポットなどについては、いろいろな角度からのいくつもの紹介がありますので、そちらを参照されますように。ぼくは徳島新聞の一枚の写真で見るばかりですが、それでじゅうぶんに堪能します。秋の夕日に照る山もみじ。よく見ると写真には「舗装された道路に車」「送電線はどこにつづくのか」と、「文明」の印影が映り込んでいます。良いことではありませんか。この近辺には大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)などという「地名」もあり、実際に歩行困難な急峻な岩場がつづいていました。いまでも、恐る恐る歩くには格好のコースかもしれません。あるいは「文明化されて」舗装されているかも。

 白川も椎葉(今夏の豪雨被害を受けました)も「ライトアップ」されても、何の不思議もないくらいに有名なスポットになりました。どちらも、ぼくにはなじみの場所ですが、この「三大(元秘境)観光地」の知り初めは柳田国男さんでした。彼は明治の末頃から、島の各地(沖縄も含めて)を徒歩で走破されています。その足跡をペンで色づけると、この島全体が赤くなるとも言われたほどに歩いた人でした。そこから生み出された記録は後に「日本民俗学」と命名された。柳田さん以上に歩き続けた人が宮本常一さんでした。一年の三分の二を旅の明け暮れで過ごしたとも言われた。「歩く」とは「考える」ことだと喝破した文人がいました(幸田文さん)。だから「徒歩」が移動の手段だった時代の人々はとてもよく「考える人」(昔もロダンはいた)でした。いまは便利になり過ぎて、観光気分(歩かない)で「秘境」に出かけられます。「歩かない」は「考えない」と同義です、ぼくの辞書では。半世紀前くらいまでは、各地にほとんど他所者の出入りのない村や町があったし、ぼくは京都で、そのような場所に出かけたことがあります。(もちろんぼくの小さく狭い「生活世界」の外のことだったから、それはどこにでももありましたが)

後狩詞記この本は現在むやみに景気がいいが、実は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書写、それに或旧家の猟の伝書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの、出したのは明治四十一年の冬だが、当の作者がまだ高齢で彼地に生きて居る。ただ此書を珍本にした技術に至っては、或は私のものということが出来るかも知れぬ。この年の五月の末に、私は東京を発して九州の南半を一巡し、広島まで還って来てから電命で又土佐へ渡り、百余日をかさねてへとへとに疲れて戻って来た。そうして病床に就いて退屈な日を送って居た際、気がついて見ると旅費が二十何円があまって居る。是であれを本にしてやれと思って、積らせて見たところが丁度五十部だけ出来るという。本に番号を打つということはあの頃としては大きな気取であった。終りの数冊だけはつまらなく散らしたが、其他は悉く行先を控えて著者関係者、及び其当時自分の尊奉する限りの先輩へ、多くは手紙まで添えて拝呈したのであった。あんな百二十頁のちっぽけな本に、徳冨山路等の一流文士の批評が出て、其時から既に好事家に狙われて居たのである。中に書いてある事実が当時としては皆耳新らしく、其上に序文と頭註で、是は将来研究しなければならぬ問題だといい、実際又少しずつ、我々の学問も之を明かにする方へ向いて行ったので、次第に客観的にも重要になって来たのである。岩波といったような大出版者には経験の無いことだろうが、自分にはこの発行総数の半分までは所在が判って居る。中には二度三度主を替えて、まだ系統の辿られるものさえあるのである。しかも滑稽なことにはこの書の題名を、正しく読んでくれる人も半分しか居ない。私は実は多賀豊後守の狩詞記を読んで居て、斯ういう名の本が出して見たくなったのである。この興味が無かったなら、或は出版はまだ延期せられたかも知れない。(柳田国男『予が出版事業』所収1939年刊)(タイトルは「ノチノカリコトバノキ」という)

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 この一週間は、太平洋の彼方の「大国」の大将を選ぶ選挙に、ぼくまでもふりまわされた感があり、まあ、いつものように時間を浪費してしまいました。大であれ小であれ、国の政治は「権力争い」とみれば、ぼくなどの干渉するいわれはないもの、でも多少とも「税金」を取られる身とすれば、一言あってしかるべし、それがぼくの身の置き方です。(税金を「納める」とぼくは言わない、税金を「取られる」と)権力争いは「陣地争い」であり「名誉戦争」であり、「所有地争い」でもあると思えば、つまるところは「椅子取りゲーム」ですよ。それなら、どこにでも(犬や猫の世界にも)、常に生じているのであって、人間に特有の現象ではないんですね。得心が行けば、騒ぐばかりが能じゃないというところに落ち着きます。

 それにしても、一万メートル競走で、はじめの千メートルで勝っていたんだから、これで競争を打ち切れという発想はただものではないね、誰もが言えるセリフじゃない。でも競争は参加者には同じ条件が不可欠だから、そんな文句はレースを降りることしか意味しない。でも、裁判だろうが何だろうが、とことんやってみなはれ、金も時間もかかるし、勝ち目がないとされるなら、それだけの理由(根拠)があるからではないですか。敗北の弁にも理屈(面子・face)がいるとは、厄介なこと。「最後まで戦う」、そして一人になった。そこで初めて気が付くこともあります、Tさん。

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 だから、この一枚の写真(秋景色)は、ぼくにとっては「口直し」というか、「迎え酒」というか。あるいは「精進落とし」とでも言っておきましょうか。特段の潔斎をしたわけでもありませんが、「やったつもり」であって、お祭りは終わったということです。「対岸の祭り」も終わりました。いずこも「再起動」ですね。

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 祖谷の奥山は紅葉の盛り、猪も愛でていることでしょう。ぼくは、いつもこんな句を思い出します。

 分け入っても分け入っても青い山 ー 山頭火会心の作だったかどうか(ぼくには疑わしい)。「青い山」とは墓地のことです。(東京にもありますね、「青山墓地」)という意味は、この島のどんなところにもお墓がある、人の生活があるというのでしょう。(人間至るところ青山あり・ジンカンイタルトコロセイザンアリ)山頭火はそのように詠んだ。山深く、どんなに行っても行っても、人が住んでいる、生活があるという実感なんです。「人跡未踏の地」なんかあるものですか。これは柳田さんも指摘されていることです。祖谷もそうでした。秘境といったのは「都会人」であって、「不便を嫌い」「遅れた生活を厭う」偏った人間の好悪が使った蔑称だったかも。アメリカの「レッド地帯」のどんな辺鄙なところにも「人間の大地」「人の生業」があるのですね。アパラチアの山中にも、もちろん人々の生活があります。ぼくはよく知っています。

 辺鄙(へんぴ)の「鄙(ひ)(ひな)」=「都会から離れた」、都会の周辺地つまりは「田舎」という、これも「都人」が使った蔑称だと思う。「ひなびた」とはなんという美しい言葉でしょうか、とぼくは好んでいるのですが。辺地、辺境、周辺、辺地、僻地(僻陬)、その他無数と言っていいほどに都会人の発明した「蔑称」(いまでいう差別語)がありますが、その意味(理由)は何ですか?石田梅岩だったかに「都鄙問答」という本があった。読んだ記憶はあるが、その内容は記憶の彼方です。(「センター」争いはAKBばかりではない。それを言わないで「マージナル」だとかいう嫌な語を使いたがるのは、「都会人」という寂しい人たちなんだ)

 今では「辺鄙なところにいらっしゃい」と官民挙げて、「周辺回帰運動」真っ盛り。「田舎に住もう!お金をあげるから」という役所もある始末。ぼく流に言えば、「田舎暗し」がいいんですね。ネオンなんか一つもない。変われば変わる世の習い、です。その昔、江戸時代以前は「東京・関東」は「京都陣地(五畿内)から見れば「僻陬の地」で、譬えて言えば、「蝦夷地」のようでしたね。中華以外の地は「蛮地」で、人間以外の生き物(蛮族)が住んでいたとされる偏見は、時代を越えて拡張していったのです。ローマ以外も蛮地、すべては「ローマに通じる」という表現は「都人の奢り」の証拠でもあるのです。「四大文明」は歴史の彼方に消えたし、「地層」に埋もれましたが、なに、蛮地だけはいまもなお残っています。 

 都会と田舎 これは対立語でもなければ先進地・後進地のことでもありません。どちらも独自の「文化」なんだ。「文化」は比較されることを拒絶します。そこが「文明」と違うんだね。自動車は文明の利器ですから、年代や型式が文句を言うのです。「時代遅れ」は文明圏の話だ。(これ(文化と文明)については、次回にでも書いてみます。断るまでもなく、ぼくはちょっとばかり「文化」派、そう「文化」人なんです、それを都会文明人は「野蛮」と言いたがる) 

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。