
ここ数日は折りを見て、アメリカの選挙報道を見ています。NBCやABC、CNNなどのライブ盤です。いつものことながら、あまりにも早口でわからないところが多くありますが、数字やクリップがあるので何とか状況はつかめます。中継の合間にDの記者会見などもはさまれており、普段は見慣れない光景にいろいろと感想がわきます。それはともかく、これを書いている段階(11月7日6時過ぎ)で、まだ決着はついていない、というより最終票の確定がされていないので、当選がペンディングになっているのです。「待てば海路の日和あり」とはだれにとってか。

この間にもDは「選挙が盗まれた」「組織的な不正があった」「郵便投票は不正の温床」とか言って、あろうことか選挙制度までも非難し、テレビ各社の会見中継が消されてしまったなど、予期しない場面に遭遇しています。それでも開票は淡々と進み、当選が決定されるでしょうし、一方で郵便投票に不服な側は裁判闘争に持ち込んでいます。さらに裁判への訴えが追加されそうです。法律がある以上、法廷闘争は権利として認められていますから、「おやりになるなら、ぜひどうぞ」ということです。仮に投票結果が逆転(反転)したしても、それは「裁判」の結果です。それをとやかく言わない、いや言えないですね、ぼくには。
ぼくが寒心(感心も)するのは、自分が有利であるなら開票を進めろ、不利になった途端に開票は止めろというD(に煽られた支持者たち)の卑しい根性(low guts)です。闘争本能を掻き立て、勝つためなら手段を択ばない御仁だと、ずっと見ていましたから、いまさらぼくは驚かない。Dという人は権力掌握にしか情熱を示さない人間であり、一番だといわれることにしか興味がない、「お山の大将(the top dog)」に他ならない。ぼくが関心を持っているのは、その「お山の大将」を、およそ半数近くの選挙民が(多分)熱狂的に支持している事態です。おそらく、D氏が大写しになるのに同調している自分も「ヒーロー」「ヒロイン」だと感じるのでしょう。そのような人々を、ぼくは詰りはしない。さもありなん。これはいずこの選挙でも同じです。町内会会長を選ぶ選挙(もしあるなら)でも、ヒーローやヒロインは(一瞬であれ)生まれます。(Dの側に列する人々は、自分たちの足元を掘り崩しているという愚行に気がつかないのは、なぜだろうか。この先は暴力しかないと思い定めているのかもしれない。それを実行するとは思われませんが)

この「お山の大将」を四年前に選んだアメリカという国の、一面では健全な、他面では不健全は姿を見せられただけでも、ぼくはよかったと思っているし、今回も同様です。どちらが勝利するか、それは時の定め(選挙民の選択)です。スウィングするのは「選挙区」ばかりではない。全土が右に左に、上を下への「揺れに揺れ」をくりかえしているのです。これこそがアメリカの正真正銘の「歴史の現在」です。結果に不満があるから裁判へ、それが筋だし、そのための法律でしょう。誰が見ても明らかな結果に文句をつけるとは、なんと往生際が悪い奴らかと大方は非難するが、同じ立場に立てば攻守所を変えるはずです。「天に向かって唾を吐く」ことはしたくありません。
と、ここまできて「凡語」の登場です。何も言わないで、まずは、読むことを期待します。
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コラム凡語:トホホの米大統領選

米国の旅でデモクラシーの姿を見た19世紀フランスの思想家トクビルが、こんな言葉を残している。社会に優れた人はいくらでもいるのに、「為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いた」▼なるほど、トクビルはよく観察している。21世紀の今回大統領選を見れば、その通りだ。討論会で現職トランプ氏と民主党バイデン氏が口汚くののしり合った。郵便投票でバイデン氏が勢いを増せば、トランプ氏は「大いなるペテン」と不正を言い募る▼投票集計の停止を求めるなど、法廷闘争に打って出るらしい。メディアがバイデン氏勝利と報じたとしても、トランプ氏に敗北を認める気はなさそうだ。そうなると、次の大統領はいつ決まるのやら▼トランプ氏がもたらす分断で、両支持者は過激化し、さらに暴力沙汰が広がらないか心配になる。トランプ氏に言動に気をつけて、と言っても無駄だろうが▼トクビルは米国で会見したジャクソン第7代大統領を評し、統治の資質に欠けると冷たい。議場の政治家は凡庸に映る。それでもデモクラシーが安定しているのはなぜかと考え、地域自治や陪審裁判への住民参加など草の根の力に目を向けている▼現代の米国はより多様化し格差が拡大している。大統領選でトホホに見えたデモクラシーの行方が気にかかる。(京都新聞・2020/11/6 )

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トクビル(アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル・Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 – 1859年4月16日)はフランスの思想家、政治家でもあった人。この人の研究では多くの業績を上げた友人がいます。文庫で「アメリカンデモクラシー」を翻訳もされています。彼からいろいろなことを聞いたのですが、政治家に優れた人材がいないとの指摘はトクビルにかぎらないし、十八世紀のアメリカにかぎらないでしょう。いつでもどこでも、「優れた政治家」(ひょっとしたら、これは言語矛盾・矛盾言語じゃないかと、ぼくは考えています)、はどこにもいない。優れた政治家であり続けた人はさらにいない。大小を問わず、「権力は腐敗する」のを、ぼくたちは目前(ライブ)で見せられてきたし、現在進行形で、まさに腐敗してゆくさまをまじまじと見ていないでしょうか。クズやごみのような政治家連中(という意味は、「掃いて捨てるほど」ということ)、彼らや彼女たちの最大の関心事は「政治家」であることです。よく言うように「政治家も選挙に落ちたら、ただの人」ですって。こんなふうに「ただの人」を貶めるような輩が、気まぐれにでも「ただの人」のために政治を行うとしたら、それは勿怪の幸い、望外の喜びです。もちろん「ただの人」のぼくは、勿怪や望外の「幸い・喜び」を心から願っているのです。まるで八百屋で魚を求めるような愚かさですが。

「トホホに見えた」とアメリカのデモクラシーを憐れむのか嘆くのか、「凡語」氏の記事は、ぼくは寒心も感心もしない。 <Put yourself on the shelf>なら、誰だって立派なことやきれいごとを言えるのです。新聞の嫌なところ、好かぬ側面は「月光仮面」でありすぎるところです。「正義の味方はだれでしょう」、それは「新聞でした」じゃ、いかにも情けないじゃないか。「トホホに見える眼」を持っていること自体、自分を忘れているということだし、「おのれの現実」に目を瞑っていることになるのじゃないですか。「凡語」とか「凡人」といって「凡」を舐めていると、竹箆(しっぺ)返しを食うね。騙されたと思って「凡」に徹してみてください。きっとそれは「非凡」になります。(「非凡」を勧めるんじゃありません。何事も徹底すると、その先を行くんですね。愚の先は大愚、拙の先は大拙、凡の先は大凡という具合で、一筋の道が延々と続いているのですが、どこまで行くと行き止まりになるのか、要するに際限なしなんですね。それが「熟」するということ。段々と、です。一気に熟すということはなさそうです。「熟練」「習熟」「成熟」などと言います、その反対は「未熟」「腐熟」「不熟」なんだ。「トホホ」などという言葉(じゃないね)を見たくも聞きたくもなかった。
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