
米大統領選の開票が始まった。その速報を見ながら書いている。歴史に残りそうな高い投票率、世界の熱いまなざし。かつてない大統領選になった◆それにしても、と思う。これが民主主義のお手本になるべき国の選挙だろうか。敬意のかけらもないののしり、銃を手にしての威嚇。選挙後の混乱を恐れた店はショーウインドーに板を張りつけている◆12年前、オバマ氏が大統領になった選挙戦を思い出す。取材した民主党大会は華やかなショーのようだった。銃を手にする警官の姿は会場内にあったものの、一歩外へ出ると険しい気配はない。それが幻のような◆作家石川好(よしみ)さんは若いころ、米国のイチゴ農場で働いた。そこで聞いた老牧師の言葉を著書に書きとめる。この国は「世界で一番自由な国」ではなく、「一番自由な国であらねばならないのです」。あらねばならない。誇りと気概が言葉からあふれる◆残念ながら、選挙戦で私たちが見てしまったのは、老牧師の思いとかけ離れた大国の姿である。人種、貧富、思想。走る亀裂のなんと深いことだろう。異なった価値観や考えが受け止められる社会を実現できないようなら、民主主義のお手本とは言えない◆老牧師の弁に加えたい。「一番寛容な国であらねばならない」と。(神戸新聞・2020/11/05)
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今は十一月六日の午前六時です。さきほど猫に食事をやり終えて、ネットでニュースを覗き見しているところです。そこで「正平調」に辿りいたわけ。石川好(よしみ)さんの名前が出てきました。彼はしばしばテレビに登場し、切れ味の鋭いコメントを発していたと記憶しています。最近、動静を聞かないので、健在かどうか心配です。たしか「イチゴ白書をもう一度」ではなかった(ユーミンでした)、『イチゴロード』を書いた人でした。アメリカに滞在し、何冊かの著書を出されています。(検索したところ、お元気で活動をされているそうです。ぼくがよく知らなかっただけでした。なんか、人(思想・態度)が変わってしまったようにお見受けしましたが)

「一番自由な国であらねばならない」というのは努力目標なのか、お題目なのか。どちらにしても「アメリカファースト」はいまもなおバリバリの現役です。この「国は一番」でなければならないという主張はまるで「国是」のように、いつでもそびえたっているんではないですか。「一番ならいいなあ」という寝言ではなく、国力を誇示して、「俺は男だ」と絶叫していた森田健作千葉県痴事のように、あたりかまわず国家の威信をかけて、暴力を振りかざしてきた国でした。右手に銃を、左手にデモクラシー(の自由)を、それがアメリカでしたし、それはなお健在ですね。「二つのじゆう」を腰のガンベルトに装着して、ね。
「これが民主主義のお手本になるべき国の選挙だろうか。敬意のかけらもないののしり、銃を手にしての威嚇。選挙後の混乱を恐れた店はショーウインドーに板を張りつけている」とコラム氏は嘆いておられますが、なに、一皮むけば「男は狼」「人間は野蛮な野獣」だということで、どんなに上等の背広やスーツを着ていたところで、プラダやグッチを身に備えていたとしても、「一皮むけば」、裸の獣(トマス・モア)なんですね。もちろん、今回の「選挙」は異常でもびっくりするほど過激でもなく、獣性(銃声)と仏性の「アマルガム」であるという、人間の本性が素直に出ただけの話であると、ぼくは見ている。人(や人の集団)が進歩するというのは、徐々に「獣性」が消えることを意味しない。「獣性」に「仏性」が席を完全に譲らないだけ、情念(獣性)を抑えることができること、それが進歩です。「進歩した」と思ったとたんに、堕落や退廃が始まります。だから、進歩は永遠じゃないんです。進んだと思ったら退く、「三百六十五歩のマーチ」みたいなもんです。「一歩進んで、二歩さがる」ように。「獣と仏」はどこまで行っても、離れてくれない。「自省」と言い、「自律」ということが、ささやかながら、人間の尊厳を支えているんだ。失敗からしか、ぼくたちは学べないのです。失敗は成功のもとというけれど、ホントのところ、成功は失敗のもとなんですよ。下手に成功すると、ろくなことにならないんですよ。これも経験しました、ぼくは。
さらに言えば、ある事柄や事象のどこを見るかという問題です。ありていに言うと、表(美)を見るか裏(醜)を眺めるかで、同じ物事は全く異なって見えます。表・裏(美・醜)を合わせて洞察することは、相当に困難な技です。熟練を要するんです。「ものを見る眼」というものは、なかなか得られるものではない。一面的というのは、どこにでも生じるし、数が多い方が勝ちというのは、民主主義の一要素でもあるのです。裏を見る方が多ければTサイド、表を見る側が優勢ならBサイド、みたいな傾向があります。政治もまた、この繰り返しではなかったか。これからもそうであるはずです。それを歴史と呼ぶのでしょう。

翻って、この島の政治の実情を見るといい。ぼくは昨日、少し時間があったので「国会」とかいうへんてこな場所の「議論」などというものを見るとも聞くとも意識しないで、画面が動くに任せていました。ほんの数分です。これは何ですか、銃があるとかないとかいうけど、誤解を恐れずに言えば、「銃」以下じゃないか。日本語を話しているように思われるのですが、ほとんど意味不明。これは国会語なのか、それとも「方便」「放言」「方言」なのか。質問時間が過ぎるのを「只管(ひたすら)待つ」という、まるで「ノーマンズランド(不毛の地)」の雑音が耳に届いているだけでした。これもまた、ぼくたちの到達したデモクラシーの実態(最先端)です。ものを誤魔化す、人を尊ばない、口から出まかせ、これが永田町という辺鄙な場所の「当たり芸」だと思い知らされた気がして、じつに泣きたくなったのです。何をいまさら、今はこの程度ですんでいるが、これからはもっとひどくなるぞという確信(予感です)を以て、ぼくは自分を慰藉したほどです。「今は、まだまだましなんだ」と。
しかし、と考えたくなるのです。国会の中にデモクラシーがあるとすれば、あの程度。首領選びに狂奔すれば、米国の現場の如し。しかし、どんなに選挙や国会論戦が低質で惨めなものであっても、それとは直接関係ないところで、「わが生活」があります。もしデモクラシー(民主主義)というものを語るなら、ぼくはこちらの側においてとらえたくなります。どんなに屑や愚昧が総理大臣になろうと、それがぼくの生活を破壊しなければ、かまわない。でも、あるいは今、ぼくの日常が壊されかかっている、その危険性が生まれているのだとなれば、ぼくは迷わず立ち上がります。立ち上がって「銃を手に」する、それはない。銃を手には取らない(取れない)けれど、銃以上に強烈な「武器」を放つことにためらいはありません。銃以上に、いったいどんな武器があるというのか。それはいうまでもないでしょう。

すべてが「銃によって片付けられて」きたなら、アメリカもこの島もとっくに滅亡していた。あるいは人類は消滅していたかもしれない。銃以上に力を持った「武器」を手にしたからこそ、銃(武力・暴力)によく対抗し得て、ここまで来たのではないでしょうか。大統領選挙に際して繰り広げられるアメリカの暴力や醜態、犯罪や犯罪すれすれの行為を、平気で国会の中に持ち込んで、いけシャーシャーと「嘘」を吐ききつづける島の政治家と、その政治家を(腹の中では軽蔑しきっているのに)あからさまにバカバカしいという感情を隠さないで「立てている(振りをしている)」官僚軍の跋扈、そんな連中の親しい仲間として、ともにゲームに励んでいる「野党」と言われる議員諸侯。これも一時の遊び時間みたいなもので、大切な問題はこの先にあります。
繰り返し繰り返し、狂気と正気は入れ替わり立ち替わりしてきました。それが人間(あるいは人類)の歴史です。「過ちと回復」の歴史を、ぼくたちは、一人の人間の生涯にも、一国の軌跡にも認めることができます。正義は●✖ではない、ある種のグラデーションなんですね。「嘘か誠」かでもなく、「善か悪」かではない。(「男か女」かでもありません)二者択一は虚構。悪に近い善、嘘に近い誠、それをいかに見ぬけるかが、ぼくたちの「人間性」「誠実性」の試金石になっているのです。まあ、焦らないで「見抜く力」を育てたいね。地上一ミリの浮揚、これを果たすのに、いったいどれだけの時間を必要としてきたか。人類史の長さを忘れたくない。
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