秋深き隣は何をする人ぞ

 常寂光寺
 慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。本堂は慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営する。 仁王門は、元和二年(1616)に大本山本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を移築、仁王像は運慶作と伝えられる。什物に高倉天皇より小督局に下賜された車琴がある。 これは小早川秀秋公より当山に納付されたものである。(非公開)(https://www.jojakko-ji.or.jp/)

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 「文化の日」だそうです。その日に何をかんがえたりしたりするのが似合っているのか、ぼくには分かりません。朝からというより、深夜から雨は降り続いています。文字通り、秋冷の候と呼ぶにふさわしい時候でもあります。身も心も寒くなるとき、ぼくは「寒心」という言葉を使いたくなるのです。時局も不可解な、あるいは摩訶不思議な状況にさいなまれているように感じられて起案す。政局というが、見るも無残な、こんな連中が政治の要路にへばりついているのかとおもうと、反吐も出るわ草目も出るわで、悪い風邪を引いたような気分になるのです。

 ぼくには珍しい風が吹いているのか、どことなく、そぞろ郷愁に誘われたかのように、いろいろなことが想い起されてきます。まずいくつかの俳句です。なかでも芭蕉の一句。混ぜ是が人口に膾炙したのか。おそらく読み違えたのではないでしょうか。平凡ではあるが深い心持がそこはかとなく感じられてくるのです。だから、名句なのか、じつに哀れみに満ちた芭蕉句です。

 「秋深き隣は何をする人ぞ」元禄7年9月28日作、芭蕉五十一歳の作。この一か月後に、大坂の知人宅にて死去。芭蕉最後の句とも言われています。いわば「白鳥の歌」といってもいいか。これについてもなんか言いたいのですが、止めておきます。静かに最期の床に就かんとする芭蕉の胸中に去来したものは何だったか。端倪術からすべからざる別離の避け得ない心境が籠められているのです。

 つぎもまた、病の篤い正岡子規の句です。陸羯南の「日本」から派遣されて大陸に想ういた彼は大吐血をして方法の態で記帳するのです。宿痾の憑依でした。その際の一句、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」明治二十八年秋。子規は中国から病を得て神戸に帰国、やがて郷里に帰り、漱石と再会。上京の折に奈良行きを試み、この句の材を得たとされる。奈良法隆寺見物に際して漱石に「借金」したという逸話があります。誰だったか、後生の洒落人が、だったら、「柿くへば金がなくなり法隆寺」じゃないですかといったそうです。

 雨に誘われてまだまだバカ話、よしなしごとが出てきそうですが、ここで終わり。上掲の紅葉写真は京都右京区の小倉山在の常寂光寺(再掲)。この寺について、ぼくには麗しいというのか、仄かなというべきか、ちいさな秘密のようなものがあります。これはまだ誰にも話したことはありません。だから、これも内緒です。小倉山の彼女は、いまも健在だろうか。庭もよし、庭からの眺めは京都市内を一望下に。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです