
なお、自分は信心深いとうぬぼれて人を軽蔑している者たちにも、この譬(たとえ)を話された。「二人の人が祈りのために宮に上った。一人はパリサイ人、他の一人は税金取りであった。パリサイ人はひとり進み出て、こう祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように泥棒、詐欺師(さぎし)、姦淫(かんいん)する者でなく、また、この税金取りでもないことに感謝します。わたしは一週間に二度も断食(だんじき)し、一切の収入の一割税を納めております」しかし税金取りは、遠くの方に立ったまま、目を天に向けようともせず、ただ胸をうって、「神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦(ゆる)しください」と言った。わたしは言う、あの人でなく、この人の方が信心深いとされて、家にかえっていった。自分を高くする者は皆低くされるが、自分を低くする者は高くされるのである。(ルカ福音書一八章9-14節)

聖書の譬話(たとえばなし)はいったい何をなににたとえているのか。譬話として「信心深いとうぬぼれている人」「人を軽蔑する人」を教え戒めていることはまちがいない。でもさらによく読んでいけば、あなたは「パリサイ人」なのか、それとも「税金取り」なのか、どちらなんですか、とじかに問われていることに気づくはずです。パリサイ人は仲間から高く評価されている。法律を守り、善行を重ねる模範的な人間として描かれていますから。それに対して税金取りは、当時の社会にあっては容赦なく税金を取るばかりでなく、ローマの官憲とも通じているとされ、多くの人々から嫌われ、疎んじられていた。二人のうち、はたしてどちらが「わたし」なのか?
同じルカ福音書(十章25~37)に次のような話がでています。一人の律法学者がイエスを試して、次のような質問をしました。「永遠の命を継ぐにはどうしたらいいのか」「律法にはどう書いてあるか」「『心をつくし、力をつくし、思いをつくし、主なる神を愛せよ。また、隣びとを自分のように愛せよ』と書いてあります」そしてさらに彼は訊ねました。「では、わが隣びとは誰か」と。そこで次の話がされたのです。サマリア人はユダヤ人とは折り合いが悪く、彼らはいたく嫌われていました。

《ある人がエルサレムからエリコへ下って行くとき、強盗にやられた。彼等ははぎとり、なぐり、半殺しにして逃げた。たまたまある祭司がその道を下ってきたが、その人を見ながら、向こう側を通って行った。同じようにレビ人もそのところに来たが、見ながら向こう側を通って行った。/ しかし旅するあるサマリア人はその人のところに来ると、見てあわれに思い、近よって傷にオリブ油とぶどう酒を注いで包帯し、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って手当した。そしてあくる日宿屋の主人に二デナリ渡していった。『この人の手当をしてください。もっと金がかかったら、わたしが帰りに払いましょう』と。この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣びとであったとあなたは思うか」と。彼はいった、「その人に親切にした人です」と。イエスはいわれた、「行って、あなたも同じようにしなさい」と》
ここでも、祭司やレビ人(レビ族で宮仕えする人)といった、それぞれの階層において大きな尊敬を集めていた人ではなく、疎まれ軽んじられている人が尊いとされています。これらの話はキリスト教の世界に固有のものではないと考えられます。人間のなかにはさまざまな思いや感情・情念が潜んでいる。ときとしてそれらが表に現れ、その人がどのような人間であるかが明らかにされるのです。

ブルトマンという神学者の書いたものを若いころからぼくは読んできました。信仰を得るためでも、博識を誇るためでもなく、躓きの石に遭遇した時に、それを回避するか躓かないような歩き方が学べると考えてのことでした。いずれにしても邪念があったことを隠したくありません。彼からも、ぼくは多くの事柄を学んだと思いますし、それは今でも「生き方のバックボーン」になっているような気がするのです。最初に掲げた「パリサイ人と税金取り」について、ブルトマンは言います。
《一般に尊敬されている身分を代表し、いささかも非難することができないような模範的なパリサイ人に対して、彼をはるかにしのぐ例として、取税人が、この軽蔑され避けられ、まともな人間なら好んで交際しようとしない者が対立させられる、ということは、(その昔イエスの話の)聴衆にとって挑発であり、侮辱であった。これは、次のような場合にわたしたちは何と言うだろうか、と考えてみればよいであろう。
つまり、たとえわたしたちが自分をわたしたちの身分の特に優れた見本とはたぶん思わないにしても、尊敬されている身分に属し、その身分自身の誉れとなり、良い評判を得ていることを、やはり誇りに思っているとき―そういうわたしたちに対して、劣等な者、避けられる者に属していて、もともと低級で卑俗なことしか期待されないような人間が、わたしたちをはるかにしのぐ例として突きつけられたとしたら、わたしたちは何と言うであろうか。

いずれにせよ、もしこの物語が、初めて聞いた人たちの場合のように、わたしたちにも奇怪でけしからぬのでなかったら、そしてパリサイ人とはことによるとわたしたち自身のことではないかという気がしないならば、わたしたちはこの物語を正しく聞かなかったのではないかと恐れねばならない》(ブルトマン「マールブルグ説教集」より)
他人の評価を求めることは非難されるべき事柄ではないでしょう。自分の行いがそれにふさわしい評価を得たとき、わたしたちは満足を覚えます。だから、満足を覚えるために「正しい行いをするのか」ということが問題とされているのではないか、ぼくはそのように考えます。
軽蔑されのけ物にされているサマリア人や税金取りが他から尊敬され評価されている人たちよりも優れているとされるのは、それゆえに合点のいかないことだと思ったとしても不思議じゃない。だれがみても納得できないということは、しばしば生じることですね。ここで問われているのは、一人の人間が表面的な評価を勝ち得ている、その深部においてこそ、その人の姿が隠されているということ、その隠された姿は時として面に現れるものだということ、そして、それはどのような時かということです。人間が正しいのは、その人の固有の正しさ、内面における正しさによるのだということでもあるでしょう。それはいかなる意味なのか、考えていただきたいことですね。 ぼくは、むかし小さな本で次のようなことを述べたことがあります。今なお、この拙い考え方はぼくの中で生きているのです。
《どんなに正しい行為であったとしても、私達が私達の内面において正しくなければ、それを正しく行うことはできないだろう。正直な人が、他人を恐れるが故に正直であるなら、どうして、それを正直だと言えるのだろうか》

「内面における正しさ、あるいは正直」とは何を指して言うのでしょうか。
これはすでにどこかでも書いたことですが、ぼくはキリスト教徒ではない。いわば、聖書の愛読者に過ぎないのです。でもこの読書から、おそらく教会に属している方々とは程遠い理解や解釈をしているのだろうという自覚(不安感)もあります。しかし、この読書から、ささやかだとはいえ、ぼくはかなりおおきな示唆を受けてきたことも本当ですので、あえて、ここに記した次第です。ご照覧くださいというほかありません。(このようなテーマをもう少し続けたいと願っています)
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●ブルトマン(Rudulf Karl Bultmann)1884.8.20 – 1976.7.30 ドイツのルター派神学者,新約聖書学者。
元・マールブルク大学教授。チュービンゲン大学で学び、1921〜54年マールブルク大学神学部新約学担当正教授。’51年同大名誉教授。教授就任直後、ハイデッガーと親交を持ち、実存哲学の影響を受ける。又、弁証法神学者として新約学会に影響を与えた。’21年に出版された「福音書伝承の歴史」は様式史的研究の古典となる。他に「イエス」(’26年)、「ヨハネ福音書註解」(’41年)、「新約聖書神学」(2巻、’48〜53年)などの著書がある。後にマールブルク大学を中心に新しい聖書解釈法が生まれ、ブルトマン学派が形成された。(20世紀西洋人名事典の解説)
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