明快な演奏、堂々とした振舞い、巨匠というべきか

 アメリカ、ヴァージニア州レキシントンで生まれたヒラリー・ハーンは、1983年ボルティモアに移り、そこで初めて地元の子ども音楽教室でヴァイオリン・レッスンを受ける。1985年からボルティモアにて、クララ・ベルコヴィチ女史の元で5年間レッスンを受ける。オデッサ(ウクライナ)出身のクララ・ベルコヴィチ女史は、ボルティモアに移住する前、25年間にわたりレニングラード英才音楽学校で音楽に優れた生徒に教えていた。1990年、ボルティモアのLeakinHallで、彼女は初めてのリサイタルを行う。弱冠10才フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、83歳のヤッシャ・ブロツキー氏に師事する。ブロツキー氏はウジェーヌ・イザイの生存する最後の生徒であった。同年、彼女は初めてラジオ出演も果たす。(以下略)(https://www.universal-music.co.jp/hilary-hahn/biography/)

 3度にわたるグラミー賞受賞ヴァイオリニストであるヒラリー・ハーンは、明快で華麗な演奏、非常に幅広いレパートリーに対する自然体の解釈、そして、ファンとの一体感ある結び付きにより、名声を博している。ハーンは、創造性に富む音楽作りへのアプローチと、世界中の人々と音楽的体験をシェアするための熱心な取り組みにより、多くのファンに愛されている。最近では、「100日間の練習(100 Days of Practice)」というインスタグラム・プロジェクトを立ち上げ、自身が練習している様子を撮影した動画を100日間連続で投稿した。このように舞台裏での練習をファンに公開することは、これまで彼女とファンとの間にあった、音楽の創作過程における垣根を取り払うことを目的としている。(以下略)(https://www.japanarts.co.jp/artist/hilaryhahn/)

(芸のないことおびただしい、単なる貼り付けになりますが、ぼくの笑うべき文章を出す勇気がありませんので、これでお茶を濁すことにします。彼女の演奏を堪能されますように)

 ハーン氏の演奏はアラベラを聴くよりも、ずっと前によく聴いていました。女性特有の、という言い方がほとんど意味をなさない、じつに音楽的に明確なメッセージを持った演奏であると大変に感心し、感動したことを昨日のことのように記憶しています。アラベラさんと双璧をなす、今日のヴァイオリニストだと、ぼくは勝手にいっているのですが、この二人はヴァイオリンでなせる、それぞれの極致を画しているといえば言葉が過ぎるということになるか。二人の演奏で、同じ作曲家の同じ曲をよく聴きますが、これが「個性」というものなのだということを如実に示してくれます。個性の違いなどと簡単に言いがちですが、そんなものじゃないと思います。その人自身の新たな境地を開く力(音楽の深まり)こそが「個性」であるといいたいのです。

 彼女も、しばしば来日していますが、ぼくは一度も演奏会に出かけていない。大した理由もないのですが、なんといっても youtube で鑑賞するだけで十分であるという、物ぐさらしい理屈の一点につきます。モニターを少し大きく、スピーカーもそれなりの音質がクリアできるものを備えて、ぼくはつねに満足して聴いているのです。実に堂々とした演奏、音楽を楽しむという一貫した姿勢、ぼくはあまり好まないのですが、「巨匠(maestro)」と呼びたいような気にもなるのです。

 さて、何を聴きますか。手始めに、Mozartはどうですか。(録音データに欠けた部分があります。いずれ補充する予定です)

●Hilary Hahn, violin Sir Andrew Davis, conductor BBC Symphony Orchestra ●https://www.youtube.com/watch?v=txDq6Zf7tNw

________________________________

 “brilliant playing”, “extraordinary sound” …

*****************

Biography

Celebrated worldwide as one of today’s leading violinists, Arabella Steinbacher has been praised for her “brilliant playing”, “extraordinary sound” and “softly blossoming tone”.(omitted.)

Born into a family of musicians, Steinbacher has played the violin since the age of three and studied with Ana Chumachenco at the Munich Academy of Music since the age of nine. A source of musical inspiration and guidance of hers is Israeli violinist Ivry Gitlis.(⇒)

Steinbacher currently plays the 1716 “Booth” Stradivari, generously loaned by the Nippon Music Foundation.(http://www.pentatonemusic.com/artists/arabella-steinbacher-soloist)

*********************

 この十年ほど、ぼくは彼女の演奏に惹き付けられています。理由は簡単です。ぼくの聴いた演奏はどれも、おそらく他の人にはまねのできないような独自の音調というか、やさしさや力強さが曲目にマッチして(そんなことは当たり前だと思われていますが)、けっして肩がこらないし、途中で耳をふさぎたくなるようなことがない。これはぼくには稀有な経験です。細かく言えば切りがありませんが、奏でられる音、それは彼女の分身のように、美しくもあり気高くもある、そんな響きをぼくは安心して受け入れているのです。

 若い時は本当に、我ながら音楽に夢中でした。なけなしの金をはたいて、どれほど聴いたか。おそらくどんな遊びよりも集中して、耳を傾けていたと思う。演奏家の名前も顔も、さらには演奏スタイルも、その内容もほとんど記憶に留めているといっても誇張ではないつもりです。バカな話ですが、一時はLPが二千枚ほどになっていました。だんだんとだらけた態度が我慢できなくて、持っているすべてのレコードを売り払ったことがあります。それから、また聞き出して、今も痕跡として三百枚ほど残っており、他にCDが千枚を越えています。ほとんどがクラシックですが、中にはジャズの古いところもかなり保存しています。

 与太話はともかく、アラベラさんの演奏を一つ聞かれるといいですね。どれでもいいといえますが、以下のものはどうでしょうか。何かの用事で、ぼくは出かけられませんでしたが、マリナーについても、確かな記憶(想い出)がありますが、余談になりますから、略します。この録画でじゅうぶんに、ぼくは堪能しています。(近年はほとんど間をおかずに来日しておられるようです)(この時期にほぼ時を同じくして来日していたのがヒラリー・ハーンさん(右写真)。アラベラさんと双璧だと、ぼくはとらえています。聴かれるといいですね。ぼくの印象にすぎませんが、近年は器楽曲は、特に女性の時代ではないですか。男性の演奏に倦んでいたぼくの耳には、どなたのものも新鮮かつ柔らかに届いてきます。コンクールで覇を競うのは音楽じゃないですね。百メートル競走のような「けたたましい演奏」の時代はとっくに過ぎたようです。何によらず、順位争いは「時代遅れ」ですよ)

 Ludwig van Beethoven – Konzert für Violine und Orchester D-Dur op. 61 Arabella Steinbacher, Violine Neville Marriner, Dirigent 24.10.2007, Tokio (Suntory Hall)

https://www.youtube.com/watch?v=zB1FOv8DzIw

##############

 名を追い求めるな、余計なことをするな

 すでに数度触れたように記憶していますが、さらにまた。『菜根譚』です。「中国の雑学書。2巻。明の洪応明著。成立年未詳。警句ふうの短文357条からなる語録で、仕官中の保身の術や退官後の山林閑居の楽しみを、儒教仏教道教の思想をまじえた立場で述べたもの。中国より日本で愛好された。」(デジタル大辞泉)これが愛読書かというと、それほど好んではいません。ホントに暇なときに、パラパラと頁を繰るばかりです。作者には申し訳ないけれど、好きかと訊かれれば、「論語」の方がはるかに。でもそれがただ一冊の名著などと考えたこともないし、ぼくがこれまでに読んできた僅かばかりの書物の中にも、「論語」以上のものがあると思う。どんな本でも「菜根」だとも言えます。繰りかえし咬むことが大切だ。

 まあ、時に応じて、好き嫌いは変わるのが常のようですから、「これだけ」「これが最高」、などとは言わないようにしてきました。若いころからの酒飲みで「酒なくて、なんの人生か」という酒癖・卑しさでしたが、今ではすっかり「下戸」(まったく飲まないという意味)で、まるで昔の「啖呵」が嘘だったともいえそうです。今はこれだが、いずれ気が変わるかもしれないね、そんなところにぼくは立っている、いや座っています。さて、「菜根譚」です。菜と根が栄養になるというのですね。本日は、短文を一つ。

 矜者、不若逃名趣。練事、何如省事閒。(後集・三十一)

(名に矜(ほこ)るは、名を逃るるの趣あるに若(し)かず。事を練るは、何ぞ事を省くの閒(かん)なるに如かん。)

「名声を世に誇るのは、できるだけ名声を逃れることの奥ゆかしさには及ばない。また、ものごとに練達になるよりは、できるだけ余計なことを減らすことの方が、はるかに余裕がある。」(『菜根譚』今井宇三郎訳注。岩波文庫版)

+++++++++++++++++++++++

 一読、さまざまな感想が沸くようでもあり、いやいや、洪先生の言われるように、「自然体」がいいんだという思いもいだきます。これもまた、人生のいくつもの段階で受け止め方が変わって当然であるという、そんな人生訓でしょうか。「名より実」と言いますね。「名を捨てて、実を取る」とも。「体裁・名誉など犠牲にしても、実質的な利益を得るほうを選ぶ。」(デジタル大辞泉)と解説していますが、「実」は「実利」ですかな。実というのは「まこと」であり、「真」であるというのでしょう。ぼくはそう理解しています。まあ、どっちでもいいようなもんですが。実と利が結びつく(結びつける)のも、拝金社会・時代だからですかね。

 欲張りは「名実ともに」と願います。その場合、多くは「虚名」であることが避けられないようです。「名こそ惜しけれ」ともいいますが、難しいことはさて置いて、名を汚すな、汚名は晴らせとも言い換えられそうです。この場合の「名」は、具体的な姓名であるというより、「自分そのもの」を指しているでしょう。名前に表される自分、自分自身を粗末にするな、懸けられた罪は雪げ(雪冤)と、身の潔白を示せという意味です。面倒なことは避けます。名を成す、名を遺す、名を汚す、いろいろな言い方も、時に応じて受け取られ方が変わりますから、一概に「こうだ。これであるべきだ」とは言えないようです。「名は体」ですかね。

 名声を逃れる方が奥ゆかしいというのは、世間が名前にこだわるからであり、それにつきあっていると碌なことにならないからでしょう。余計なことはするな、身の丈に合った生活をしなさいよ、というのも同様です。いわば、年寄りの生活信条になるかもしれませんが、元気印には「息の詰まる」「お家に居よう・stay home」みたいなのは、「時代遅れ」ですね。という具合に、好き勝手に読めばいいんじゃないですか。

 「人よく菜根を咬みえば、即ち百事なすべし。」咬んでも咬んでも、咬み切れないところに「菜根」の値打ちがあるというものです。そして、咬んでいるうちに「味わい」が沁みだしてくると。ぼくの読み方は、そのようでもあり、そのようでもなさそうです。幼少のころ、ぼくは菜根食で存(ながら)えてきました。

_________________________

 夫子之道、忠恕而已矣

 何日か前に熊谷守一さんの事に触れました。再度、熊谷さんの登場です。近年では「モリのいる場所」という映画にもなりました。夫婦役は山崎努・樹木希林さん。生誕百四十年だそうです。東京美術学校(現東京藝術大学)では黒田清輝や藤島竹二らに師事し、同級生には青木繁などがいました。実に「変わった人」だったというか、常識人のはるか先を行く風情で、とても当たり前の価値観や人生観では測れなかった。ぼくが感心するのは(偉そうなものいいですが、本心からそう感じているのです)、草創期の美術学校を卒業したにもかかわらず、およそ、その足跡は「画家」にふさわしいものではなかったし、事実、生活の苦労は大変なものでした。食うために樺太まで出かけ、漁場調査隊の写生係をしたこともあったそうです。その他、いくつもの職業に従事しました。

 「名利」に溺れなかったのは天与の才だったか、あるいは一大転機とでもいうほどの出来事があったか。俗臭芬々たるぼくには端倪すべからざる境地に生きた人でした。四十二歳のときに結婚、相手は二十四歳だった。芸術家と言われるものが、貴重な存在であるとされるこの島で、かれは真正の芸術家だったといえますが、その意味するところは、「ひたすら自然のままに生きて、描いて」という筋を通したということだといいたいのです。「論語」(「衛靈公第十五」)に「 子曰、参乎、我道一以貫之哉、 曾子曰、唯、 子出、門人問曰、何謂也、 曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」とあり、ぼくはこれをモットーのように読んで読んで、これからの人生を生きていこうと、若いころに覚悟のようなものをもとうとしてきました。

 「偉い人」というのは「我道一以貫之哉」という生き方を求めていた人、ぼくはそう考えているのです。名があるかどうか、世間の評判が高いかどうか、じつはそれはどうでもいいことで、そんな埃や塵に惑わされないで(時には惑わされかかることもありますが)、結局は一本の道を歩いてきたのだなあ、という人生を過ごした人のことを指します。その人の歩いた後に、「道」が残されたといえるような生き方です。そう考えると、案外少ないものだと気がつきますから、なおさら、守一さんは「偉い人」だということになります。ぼくは人を顕彰するのは嫌いだし、顕彰される人もまた、あまり好きではない。文化勲章の受賞など、もってのほかというべき。それはまるで交通事故に遭うような災難だと、ぼくは考えるようになってきました。つまり、国家に指嗾(しそう)されたくないという意味です。喜んで「事故に遭う」人は「当たり屋」といいます。かなり「当たり屋」が多いですね、この世間では。注意したいね。

 本日の「コラム」は中国新聞の「天風録」です。これで何度目か。こんな生き死ににかかわらない記事はいいですね。読んでいて気分が鎮まるし、ああ、ここにも「モリがいる」という喜びがあります。天下国家を騙る(語る)のは「時代遅れ」の最たるものです。新聞が「風前の灯火」とされるのは、必然だといえます。新聞と言えども「企業」「商売」ですから、儲からなければ埒もありません。しかし儲けるためになんにでも手を出すのは「新聞」というものの成り立ちからして感心しません。

 ここにある新聞が「大企業の株」を売買して大きな利益を上げたとしましょう。「T自動車」「D通」「T電」などという超大企業にかかわって利益を上げようとするなら、おそらくそれらの会社の「不祥事」や「欠陥事故」など、制約されないでは書けないでしょう。ぼくのような山中の住人にでもこのような株屋さんのような商売をしているマスコミがあるのが明白にわかるんです。儲かればいいのか、金の値打ちよりも大事なものはないのか、そんな悪態をつきたくなるし、かかるな新聞記事やテレビ番組を読んだり見たりすれば、「目が腐る」というものです。

 昨日、「女子」プロゴルフ(こんな表現が今も使われているのか)の試合中にテレビ中継会社のクルーが選手に「お菓子」を手渡していた、それを写真に撮っていたという「ニュース」(なのかね)が出ていました。それも一度ではないという。それでどうしたと、言われるか。そもそも自分がしていることがわかっていないという、どうしようもない頽廃や無知が蔓延していませんか。「乗車中に運転手に話しかけるな」というのはバス会社です。黒子(黒衣)が表に顔を出しては、舞台はぶち壊しやがな。(話がそれてきましたので軌道修正)

######################

コロナ禍と熊谷守一展

 本当に必要な時以外は外に出掛けない。散歩が日課だが、家の庭を回るくらい。新型コロナの渦中にいるような暮らしを晩年、20年近く続けた画家がいた。画壇の「仙人」と呼ばれた熊谷守一(もりかず)。生誕140周年の巡回展が三次市の奥田元宋・小由女美術館で開かれている▲庭は広く、教室二部屋分あったらしい。立ち木や草花の間を縫い、あいさつをするように巡った。蜂やカマキリなどにも目を細め、晴れた日にはござに寝そべってアリを観察したという▲そんな結晶の「蟻(あり)」「いんげんに熊蜂(くまばち)」といった絵が並ぶ会場に本人の口癖を添えてある。<石ころ一つ、紙くず一つでも見ていると、まったくあきることがありません>。退屈なし、金銭欲なし。文化勲章の内示さえ辞退している▲かすみを食う「仙人」生活は、まねのできる芸当ではあるまい。ただ、10年近く前の東日本大震災で気付かされたはずの教訓が思い出される。身の回りの「当たり前」や命がどれほど尊く、丁寧に生きることが大切か▲日本画や書も交えた約150点の作品群に幾つか、中天に懸かる月の絵がある。どれも、庭先や軒下から見上げた景色とおぼしい。あす夕暮れの満月が待ち遠しい。(中國新聞・2020/11/29)

###################

 「いいひと」ってどんな人ですか、とぼくはよく若い友人に聞くことがあります。ほとんどは即答できないのはどうしたことか。「偉い人」も同様でしょうねえ。なかなか答えられないのは、ぼくには不思議です。「我道一以貫之哉」という、この「一」がなんであるかに人生がかかっているといえば、言い過ぎかもしれませんが、同じ仕事を生涯にわたって継続するということもありますが、「人に親切に」「ありがとうを忘れない」、近所の掃除など、これが当たり前の事柄です、という気持ちや心がけも、また「一」に当たるのではありませんか。

 熊谷さんが猫や蟻など身近な生き物、さらには自然物を書き続けたのも、はっきりとした理由があるでしょう。「戦後は明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする『モリカズ様式』とも呼ば れる画風を確立。晩年は身近な動物や植物、身の回りのものを深い洞察力をもって描き独自の画業を切り開いた」(http://mori-movie.com/sp/artist.html)奇妙に聞こえるかもしれませんが、猫や蟻などは「我道一以貫之哉」ということでは「人後に落ちない」ということだったんじゃないですか。「植物」はさらに、です。

 「君、花の美しさはどこにある?」とお弟子に尋ねたという前川國夫さんの逸話を持ち出してもいいでしょう。「自らの責任でそこにじっとしているから」というのが師の答えだった。蟻も猫も、動植物は、人間の余計な手が入らなければ、底にじっとしている、それは動きたくないというより、動かないことが習性ののだからというわけでしょう。地べたに寝ころんでまで蟻を観察し、それを描こうとした守一さんもまた、「自分の責任でじっと、そこにいる」というひとだったし、それは庭の景色の一つになってしまったかのようでした。

 人気があるかないか、評価が高いかどうか、それはまた別の話です。人生の「真価」とは同日の談じゃないですね。いつもぼくは法隆寺のことを考えます。それを建てたのは誰だ、と。「聖徳太子」というのは「「悪い冗談」です。彼は建てさせたかもしれないが、カンナなど持ちはしなかった。石ころ一つ、運ばなかったでしょ。今ではまったく名を知られない無数のといっていい「職人」さんです。その多くは中国から朝鮮半島を渡って技術を身にまとって、はるばると奈良の「都」に赴任したのです。誰が建てたかを気にしない(気にならない)で、ぼくたちは五重塔を拝んでいる。そうしているうちに千三百年以上が経過したのです。ぼくは神社仏閣に出向くことが好きなのも、誰が作った、彼が建てたなどというへんてこな情報や上辺の知識を一切持たないで、直に作物・作品に近づけるからです。名前を聞いてはじめて「へえ、すごい建物なんだ」というのは「偽り」「恥」の骨頂です。名無しの権兵衛、これが究極の生き方の流儀だと、ぼくは憧れています。

___________________________

 眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか…

 〈古家や累々として柚子(ゆず)黄なり〉正岡子規。結核を患っていた明治の文人が、命の輝きに目を奪われて生まれた句だろうか。拙宅の小さな庭にも背丈ほどの木がある。今年は豊作だ▼果実は緑から黄色に衣替えして、数十個たわわになった。冬至の風呂に浮かべる分を枝に残し、知人に熟した実をあげた。すると柚子胡椒(こしょう)に姿を変えて、戻ってきた。恐縮しつつ久々の鍋である。強い酸味と独特の香気が湯豆腐によく合う▼自宅の柚子は移植して10年ほど実がならなかった。「ならないから切るか」。業を煮やした父は、トゲトゲの木にぼやいていた。すると後年、急に実をつけ始めた。まるで私家版の成木(なりき)責めだ。だから、あの香りをかぐと亡き父を思い出す▼ある曲を聴くと突然、失恋で切なかった記憶が、よみがえったりする。音だけでなく、ある色彩や触感、味、そして匂いにも、その時々の大切な思い出が染み込んでいる▼新型ウイルスに感染した人の後遺症が心配されている。精神面のダメージだけでなく、嗅覚障害などが長く残ることも少なくない。匂いを失っては完治といえない。ワクチン開発だけでなく、後遺症対策も急がれる▼結核も感染症である。子規は骨まで冒され、苦痛にもだえた。〈病床の匂袋や浅き春〉。彼が闘病の癒やしとした小袋に、どんな大切な過去が詰まっていたのか。いま、ウイルスと闘う人々の中には香りの慰めすら奪われた人がいる。かけがえのない思い出まで、病と一緒になくなるのは悲しい。(新潟日報「日報抄」・2020/11/28 08:30)

**********************

「正岡子規」(夏目漱石)(初出 明治四十一年九月「ホトトギス」)(青空文庫)

 正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処ここに居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻に止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣やる門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎とに角かく自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処そこから手紙をよこして、恩借の金子は当地に於て正に遣い果はたし候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。

 併し其前は始終僕の方が御馳走になったものだ。其うち覚えている事を一つ二つ話そうか。正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉くれという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。其時分は常盤会寄宿舎に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食う。或時又来て呉れという。僕が其時返辞をして、行ってもええけれど又鮭で飯を食わせるから厭だといった。其時は大に御馳走をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った。

 或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗きれいなうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処で鶉か何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。其後熊本に居る時分、東京へ出て来た時、神田川へ飄亭と三人で行った事もあった。これはまだ正岡の足の立っていた時分だ。

 正岡の食意地の張った話というのは、もうこれ位ほか思い出せぬ。あの駒込追分奥井の邸内に居った時分は、一軒別棟の家を借りていたので、下宿から飯を取寄せて食っていた。あの時分は『月の都』という小説を書いていて、大に得意で見せる。其時分は冬だった。大将雪隠へ這入はいるのに火鉢を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸ようやく悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻に僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極きめている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。(以下略)

●川上眉山=[1869~1908]小説家。大阪の生まれ。名は亮(あきら)。硯友社同人。反俗的な社会批判を含む観念小説を発表したが、文壇の流れに合わず、自殺。小説「書記官」「観音岩」、随筆「ふところ日記」など。

●巌谷小波=[1870~1933]児童文学者・俳人。東京の生まれ。本名、季雄 (すえお) 。別号、漣山人 (さざなみさんじん) 。尾崎紅葉らと硯友社 (けんゆうしゃ) を結成。のち創作童話を発表。また、おとぎ話の口演にも力を注いだ。童話「こがね丸」、童話集「日本昔噺」「世界お伽噺」など。(デジタル大辞泉)

(この時期、文壇は「紅露」時代とも称されていました。『金色夜叉』の紅葉、『五重塔』の露伴。ぼくの好みは文句なしに露伴でした。比較すべき両者ではなかった。露伴の少年ものがいいですね)

#######

 この二人の交友関係に、ぼくはいつでも羨ましい思いをしてきました。出逢いからから別離まで、ほぼ二十年ほど、こんな青春の時間を持ったこと自体、まことに明治という新生国家の「若さ」のゆえに起こり得たフレンドシップであったといいたい気がします。あの神経質な漱石が磊落すぎる子規とコンビを組むなどとは考えられもしないのですが、他人の入り込む余地がないのが「情」の世界なのでしょう。あるいは、それが青春というものか。

*************************************

 痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず   鶏頭の 十四五本も ありぬべし

 赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり   いくたびも 雪の深さを 尋ねけり(以上は子規)

 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉   かしこまる膝のあたりやそぞろ寒

 雲来たり雲去る瀑の紅葉かな   菫程な小さき人に生れたし(以上は漱石)

++++++++++++++++

  壮絶であり、爽やかでもある子規の生き死に。宿痾、ついに癒えず、三十五歳の一期を画す。明治三十五年九月十九日没。遅れること十四年、大正五年十二月九日、「文豪」と称された、漱石は五十歳の生を終える。

________________________