人生は無意味である、と仏教は見た

 人生に意味があるかないか、そんなことは問うまでもないことで、「あるに決まっている」という人が大半でしょう。でもほんとにあるか、とさらに問われると、だんだん怪しくなるのも事実です。例えば「この品は千円(の値打ちがある)」と値札が貼られていれば、多くの人は「千円で買う」でしょう。「そんなの、何の値打ちもないよ」といっても構わないが、それを買うことはできないだけです。世の中はすべて、売る人買う人の絶妙の価値(貨幣)感覚によって売り買いが成り立っているのです。価値があるといわれればそうだ、と納得すす。価値(値打ち)は経験や計算によって売る人が買う人の懐具合を詮索して決めるのです。「人が決める」というところが肝ですね。

 それでは「人生に意味があるか」と訊かれれば、どう答えますか。また「お前の人生なんか、無意味だ」と言われることもあるでしょう。ぼく自身も「これまでの人生って、あんまり価値がないな」、と自己評価をしているきらいがあります。あの人より、この点で優れているから「価値がある」というなら、「あの人」を基準に計っているだけであって、別の人が横に来れば、価値や意味がなくなってしまうのではないですか。

 そもそも「人生に意味がある」「人生に価値なんてない」という問い自体が成り立つのかどうか、疑ってみるといい。根拠らしいものは「膏薬」みたいなもので、なんとでもいえるし、どこにでも貼れるような代物です。少しばかり考えかけたところで、面倒くさいなあ、という気になるのが落ちですね。あるともないとも、言えないといっておく方がまだすっきりしますが、それで安心していられるかというと、そうはいかないのも人生の厄介なところです。若い時からの読書の友ともいえる司馬遼太郎さんは短い文章で次のように言われています。 

 「人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということを、うすうす気づいていることである。古来、気づいてきて、いまも気づいている。仏教にしてもそうである。人間は王侯であれ乞食であれ、すべて平等に流転する自然生態のなかの一自然物にすぎない。人生は自然界において特別なものではく、本来、無意味である、と仏教は見た。これが真理なら、たとえば釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、しかし釈迦は人間の仲間の一人としてそれでは淋しすぎると思ったに違いない。

 このため、釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした。本来無意味の人生においてこれ以外に意味を見いだせないというのが、仏教のように思える。 

 しかし、われわれ現代に生きている者としては、その程度のことをわざわざ悟るなどという面倒なことを、ほとんどのものがしたくないと思っている。(「富士と客僧」『司馬遼太郎が考えたこと』⑦所収、新潮文庫)

++++++++++++++++++++++

 もうこの先を続ける必要もないと、ぼくは考えています。司馬さんの短い指摘でもうじゅうぶんに「人生の意味」問題に関しては終わっているといえるからです。犬や猫を、ここに持ちだすのも気が引けますが、果たして彼や彼女は「私の生きる意味」があるかないか、薄々でも気づいているでしょうか。当事者にはなれないからわからないというのが正直ですが、あえていえば、どうも考えたり感じたりしているとは思えません。その点では人間とちょぼちょぼだとも言えます。牛や馬に価値があるかどうか、と問うのは彼や彼女自身ではないでしょう。あくまでも馬や牛に関係している人間の側が「意味のありなし」を決めている風情ですね。競走馬や農耕牛に育てて、それで一儲けを企んでいるのですから、あくまでも価値を決めるのは人間の方です。こんなことはすでにギリシアの昔に考えられていました。価値というのは「アレテ―」とよび、卓越性などという意味を持たせていました。馬は早く走る、牛はよく耕すという具合です。

 人生に価値なんかないんだ、とぼくたちは気付いているのですが、それではあまりにも惨めであり、生まれてきた甲斐がないと思いたいのも「人情」です。その反対はどうでしょう。「価値がない」と決め込んで「人生という勝負を放棄しちゃえ」となるケースもあるでしょう。生きていても意味がない、生きる意味を見出せない、と思い詰める人がほとんどでしょうが、なかには衝動的に死に駆り立てられる場合もあるに違いありません。暗い話題ですが、じつはもっと大事なことを言いたいがために面倒なことを言い出したのです。つまらないから、人生を放棄する、楽しいからもう少し生きていたい。あくまでも「人生の主人公」はその「生の持ち主」なのかどうか。ここをもう少し丁寧に考えてみたいのです。

 数日前、大阪市内で悲惨な事故(事件)が発生しました。報道によると、以下のようです。

  高校男子がビル屋上から転落死、知人と歩く女子大生巻き添え…重体に

 23日午後5時50分頃、大阪市北区角田町の商業施設「HEPヘップ FIVEファイブ」(10階建て)の入り口前の路上で、通行人男性から「2人が倒れている」と119番があった。消防が駆けつけたところ、若い男女2人が倒れており、男性は搬送先の病院で死亡、女性は意識不明の重体。防犯カメラ映像などから、大阪府警は、男性が施設の屋上から飛び降り、路上にいた女性が巻き添えになったとみている。男女2人が倒れていた現場周辺を調べる捜査員ら(23日午後6時23分、大阪市北区で)=関口寛人撮影

 府警曽根崎署によると、死亡したのは大阪府内に住む府立高校の男子生徒(17)。重体になったのは兵庫県加古川市の女子大学生(19)。/ 施設を所有する阪急阪神不動産によると、直前に施設10階の従業員専用フロアの防犯カメラに、男子生徒とみられる人物がエレベーター前に立っている様子が映っていた。

 10階から屋上に出るドアは普段は施錠されているが、非常時に備えて誰でも壊して開けられるようになっている。開けると警備室のブザーが鳴る仕組みだが、警備員が屋上に駆けつけた時は、誰もいなかったという。/ 男子生徒は私服姿で、屋上には学生証が入ったかばんが残されていた。府警は男子生徒が自殺を図ったとみている。/ 女子大学生は施設の入り口前の路上を知人女性と歩いていたところ、背中付近に男子生徒が転落してきたという。(以下略)(読売新聞・2020/10/24 07:57)

**************************

 事故後に女性は亡くなられたという。事故の詳細がわかりませんから無責任な推理はしない方がいいと思う。しかしこのニュースを見て、ぼくは「人生の意味」「生きる価値」という、考えても埒のあかない問題に誘い込まれたのです。若いころから、こんな問題を執拗に追いかけてきたようにも思いますし、いくら考えても答えは出ないことも、実ははっきりと知っているのです。にもかかわらず、この問題は時に生活の只中で生まれて、一時の「思考の自由」を奪うのです。生きる・死ぬという問題はどこまで行っても埒は開かないのは分かりきっていますが、世の中の仕組みや都合によって「意味ある人生」「価値がない生き方」などと評価されている、それが現実なんですね。そこでは「世の中」が仏であり、神なんです。

 なぜ高校生は飛び降りたのか、今となればだれにもわからない。書き置きがあるかもしれないが、真相はカスミの如しです。一方の、被害に遭われた女性は、まさか「ここで人生を閉じる事故に遭う」とはおそらく微塵も思わずに歩いておられたでしょう。じつに偶然の差配(非情)というべきか。ぼくには言葉がない。死のうとしておのれを放棄した人が他者を巻き添えにするという、二重三重の想像外の事故だったというほかないのです。二人の霊前に頭を垂れるばかりです。

 ここまできて、さて「人生の価値」云々とどうしていえるというのか、ぼくを立ち竦んでいるのです。どうにかして「人生の意味」を重いものにしたい、「人生には価値がある」とはっきりと肯定したいのは山々ですが、その根底に不安や危惧の念が蠢いているのですから、砂上の楼閣とは言わないまでも、びくともしない、しっかりした土台の上に「私の人生」は乗っかっているのではないことも疑えないのです。

 「釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした」というのは司馬さんです。「花は咲いたら、枯れて散る」そこに「意味」を見つけられるならどうぞ、だれがいてもいなくても「花は咲いて、枯れて散る」これを悠久の昔から無限に繰り返してきたのです。人間も同じじゃないか、というのが司馬さんなのか釈迦なのか、どちらでもいいんですが、無意味なところに、あえて意味を見出して「生きる手がかり」「人生の支え」を得ようとするのでしょう。それが仏教の持っている効用だとも言えます。

 それじゃ、キリスト教ならどうか。司馬さんいうところの釈迦のような「人生観」を、その教義は持っているのでしょうか。ぼくはキリスト教徒ではないので詳細は分かりませんが、釈迦よりもキリストはもっと人間の立場(弱い側)に立って、「生きる価値」や「人生の意味」を語っているようにもぼくには思えるんです。いくらでも引用できますが、今は止めておく。結論を言うようですが、人間の分際ということを忘れたくないといいたいのです。分をわきまえるというのは、人間の条件、置かれた状況を失念しないことを言うのではないでしょうか。(少し長くなりそうな危惧を感じますので、この「つづき」は次回に譲ります)

_____________________________________________

 あらゆる状況を考えると、銃は必要だと思う

(射撃を練習するガーランドさん)(2020年 ロイター/Mike Segar)
 44歳のシングルマザー、アンドレヤ・ガーランドさんは、ミドルクラス中心の風情ある街・ニューヨーク州フィッシュキルで3人の娘とともに暮らしている。今年5月、彼女は護身用にショットガンを購入し、撃ち方を習うため、地元に新しくできた射撃クラブに加入した。クラブの規模は急速に拡大している。/  その後、ピストルの所持許可も申請し、ますます品薄になる弾薬類が入荷しないか常に気を配っている。地元のウォルマートに週3回は通うが「いつも品切れだ」と彼女は言う。/ 今年、米国の銃器産業は記録的な売上高を達成しているが、それを支えているのは、ガーランドさんのような初めて銃を購入する多数の顧客だ。彼女が銃器購入を決意した理由の一端は、気掛かりなニュースが重なっているためだ。新型コロナウイルスによるパンデミック、警察による黒人殺害をめぐる社会不安、そして多くの人が「選挙」の結果をめぐる紛糾が暴力事件につながることを心配している。/「周囲のあらゆる状況を考えると」とガーランドさんは言う。「銃は必要だと思う」──と。(中略) 
  ロイターが10数人の業界専門家、研究者、銃砲店オーナーに取材したところ、今年の市場拡大には、女性やマイノリティ、政治的にはリベラルで、これまでは銃所有など考えたこともなかった人々など、新たに殺到した初回購入者が含まれていたという。/「ふだんなら銃について考えもしない人々が、自分たちの領域以外のことを真剣に考えざるをえなくなっている」と語るのは、イリノイ州シカゴ郊外のデスプレーンズで銃砲店「マクソン・シューターズ・サプライズ・アンド・インドア・レンジ」を営むダン・エルドリッジ氏。/ 業界アナリスト、業界団体、さらには大手銃器メーカーであるスミス&ウェッソン・ブランズのマーク・ピーター・スミスCEOによれば、今年は初回購入者の数が急増しているという。/ スミスCEOは9月3日、投資家とのオンライン会議の中で、今年の売上高の約40%が初めて銃器を購入する顧客になるとの推定値を示した。同氏によれば、これでも控えめな予測で、過去数年の「全国平均の2倍」に相当するという。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/10/post-94802_1.php

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 彼の国は長い間、「世界の警察官」と自他ともに任じていたといわれていました。だからあらゆる人が銃にアプローチするのは不思議ではないのでしょう。だが、見方を変えれば、銃がなければわが身さえ守れないということの証明でもあるのです。前回の選挙時にも銃購入者の急増が話題にされていました。民主党が勝てば、…。ぼくは狭い了見というか、管見のかぎりで、米国は「憲法にロイヤリティ」を示す国と聞かされていました。憲法が主人というか中心であり、その下に人民が集う、約束するという政治・社会の姿が深く印象付けられてきたのです。しかし、その反面で「世界の介入者・節介者」であるという姿も、これまでにいかんなく発揮してきたのは事実です。アメリカの権力に楯突く、気に入らない勢力が政権を握る、そうなれば必ずと言っていいほど、「軍事介入」して政権を転覆させてきた、使われる手段は様々ですが、自国の軍門に下らせてきたのです。その典型はこの島の「戦後の歴史」です。戦後は一貫して「軍門に下り放し」であるのは承知の事実です。

 国内にあっても、権力を握ったものの意向に沿わなければ、「引金を引く」という並外れた「規則」を持った社会であるようです。いまはあらゆるところで分断、断絶が叫ばれていますが、最後の手段は武器を携帯した(行使した)暴力でしょう。実に長い間、この国では「銃規制」が問題視されてきましたが、いっかなそれが実現する兆しは見えてきませんでしたし、いまでは銃の保持は市民の権利でさえあるという具合です。事柄や問題を「銃で解決」するのが、表向きはデモクラシーの先進国と称されるアメリカの「解決法」だというわけです。銃付き民主主義だった。(「ホおじさん」の写真を出したついでというのも変ですが、この半月間、ベトナムに台風が数次にわたって直撃し、フエをはじめとして各地で風水害が発生しています。多くの死者も出ています。被災に合われた方々のご無事を祈りつつ、さらにご注意されますように、島社会の一隅から祈っています)

 ぼくは秀吉が断行した「刀刈り」以来、戦後まで時の権力者は一貫して民衆の「武器所持」を規制してきたことに、一定の理解を持つものです。でも、武器は国家権力が独占するという現実にも問題ありと考えています。ここで詳細は述べませんが、この島の「銃刀法」ほど奇妙な規制法はないように思います。まるで笑いばなしにもならないようですが、ある大工さんが「検問(職務質問)」を受け、車内から大工道具が出てきたので逮捕されたという事件がありました。また工事関係者が一本のドライバーで拘束されるという事案もありました。何が武器なのか、権力が認定するという行き過ぎもあります。武器の一極集中です。 

 さて米国の「現実」に戻ります。まことしやかに、杞憂(内乱・第二の市民戦争などと)が語られています。「杞憂」で終わればいいのですが。そうでない恐怖、あるいは危険性が除去できないほどに、対岸の大国も病んでいるということでしょう。間違いなく、その病は此岸(この島)にも押し寄せてきます。すでにこの島でも罹患者は少なくないようです。さらに悪化するのか。これまた「杞憂」では終わらない恐怖があります。ここまで事態を放置していたのはだれなのか、なぜなのか、世界の知恵を出しても間に合わない状況かもしれません。「戦争は他の手段による政治の継続である」(クラゼヴィッツ)

____________________________________________

 勝利のために米国社会を犠牲にするのか

  

 週のはじめに考える 勝てばいいのか

…ここで、来月三日に迫った現実の米大統領選に話を移します。/ もはや現職トランプ氏に品格を求める気はありませんが、さすがに、この大統領選の結果は「連邦最高裁で決着すると思う」と述べたのには驚愕(きょうがく)しました。もし負けなら、開票結果を受け入れず、郵便投票の不正を言い立てて裁判に持ち込む−。そう宣言したわけです。強引に保守派の最高裁新判事の任用を進め、リベラル派に対する保守派の数的優位を盤石にしようとしたのも、その備えです。 / 米紙の記事が「アメリカの民主主義は、恐ろしく危険な状態にある」と強い表現で警鐘を鳴らしたのもむべなるかな。どんな手段でも勝てばいい、いや、負けても勝つ、というのでは、民主主義も何もあったものではありません。(略)/ そうした態度から推測されるのは、米国民全体に支持を求めるのではなく、黒人・リベラル層との対立感情をかき立てることで白人・保守層を固め、いわば51%を取りにいく戦略。憎悪の摩擦熱を勝利のエネルギーに利用するたくらみと言ってもいい。自己の勝利のために米国社会を犠牲(いけにえ)に捧(ささ)げるつもりなのでしょうか。(以下略 (東京新聞「社説」・2020/10/25)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 

 この「社説」氏の立場に異論はありませんが、その姿勢の根っこに「対岸の火事」を傍観する風が強く感じられてなりません。「もっと燃えろ」とは言ってないが。「《向こう岸の火事は、自分に災いをもたらす心配のない意から》自分には関係がなく、なんの苦痛もないこと。対岸の火災。」(デジタル大辞泉)

 アメリカも大変なんだという雰囲気が濃厚です。ぼくにはそのようにしか読めません。現大統領が「国民分断」を武器に戦術を立て、「憎悪の摩擦熱」を選挙戦勝利のエネルギーにしている、「勝てばいいのか」と。「国を犠牲に供する」ことまでして勝ちたいというのは、まちがいなく狂気(クレージー)です。この「狂気」になす術もないとしたら、「対岸」は奈落に落ちていますね。(実際に「なす術がない」のだ、大統領令は正気の者にしか通用しないのだから)どこかで紹介しましたが、ある新聞社で、先の戦時中「記事の差し止め」を言外に示して新聞社を脅迫した軍部に対して、、このままでは「社が危ない」と記者仲間は責任者に忠告した。その時に編集責任者は「このまま記事を載せる。国がつぶれるという瀬戸際に、社の存続が心配だというのか」と、一喝したというのです。

 そもそも、この島社会が今のような為体、頽廃のきわみに突き進んでなお、それに歯止めがかからないようになった背景には、さまざまな理由があるものではない。ぼくは何度も触れてきましたが、「法律違反」(犯罪)を犯して、政権の座から逃げ出した前総理が、狂気じみた米国の現大統領の言いなり放題に「国を売った」がためだ、それがもっとも大きい理由でしょう。(もちろん、それを取り囲んだ政治家官僚連中も責められるが、そんな輩の徒党を許した有権者の無思慮が災いしているのは否定できない)彼らは「人民のため」を口にするかもしれないが、その実は、露ほども「人民の痛苦」を感じていない、そんな両国の連中の「蜜月」が、自国にこんな事態をもたらしたわけ。取り返しがつかないとは言わぬが、莫大な犠牲を強いられただけでも許しがたいのです。禍は元から断たねばなるまい。

 一蓮托生、日米「バカの枢軸」「無能・無法同盟」が惨憺たる現実を招来したのです。彼らは嘘八百では足りず、まるで「千三(せんみつ)」、いや「万八(まんぱち)」です。「万に八のホント」だとさ。そんな連中をのさばらしたのは、人民にも一端の責任はありますが、「第四の権力」を自認・自任している「マスコミ」にはもっと大きな責めを負ってもらわなければなるまい。それなのに、「対岸の火事」視で、まるで緊張感がないことおびただしいのに、ぼくは腰が抜けるのです。東京新聞にしてから、とオベンチャラは言わないが、それにしても暢気が過ぎる。少なくとも、この四年、どれだけの国防軍事費を米国に払う約束をしたことか。沖縄・辺野古を忘れない(右上写真)。この新聞社の一記者が「真相に迫る報道」を続けてきたことをぼくは知っています。そのような発掘報道が生かされていない「社説」など、と言いたいですね。週のはじめだけではなく、毎日でも考えてほしい。

 亡国の淵に立つ、それもまた時代と共に生きている「一人の民衆」であるぼくの運命です。無駄かもしれないが、可能な限りの抵抗を。心身ともにうちそろえて抵抗したい。(なんだか、悲壮感が漂うような雰囲気ですが、なに、陽気にとはいかないまでも、ゆとりと遊び心は失わないさ。軽妙洒脱にはよほど距離がありますが、なろうことなら「雲烟過眼」に、あるいは「虚静恬淡」を旨として歩きたいものです)(やがて拙宅上空を醜悪無用の長物が飛行か。民主主義からファシズムが叢生してくるのです。民草は、踏まれるばかりでも除草されるばかりでもだめなので、自らの存在を貫く、突き出す。小さな個であることを断固として譲らず、微力であることをすら、いささかも恥じる必要はないのだ。

______________________________________

 おぞましいことで、私は泣いている

(10月22日、新曲「positions(ポジションズ)」のミュージックビデオをYouTubeに公開した)
アリアナ・グランデが「女性大統領」になったMVが話題に。男女の立場も逆転(動画)
大統領選を目前にアリアナ・グランデが公開したMV。ホワイトハウスのスタッフの大半が女性を占めています。アリアナは「投票に行って」とも呼びかけました。
生田綾(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f94f311c5b673c608244ed7?utm_hp_ref=jp-homepage)
 
米大統領選の投票日が迫る中、アメリカの人気歌手アリアナ・グランデが発表した新曲のMVが話題になっている。アリアナが大統領になり、ホワイトハウスで公務を行なう内容で、MVの中では登場する人物の多くが女性を占めている。(中略)
アリアナは前回(2016年)の大統領選で、トランプ大統領の当選が決まった際に、「おぞましいことで、私は泣いている」と投稿していた。

++++++++++++++++

 他国の選挙なんだから、ぼくには関心がないと「高見の見物」を決め込めないのは、この島は面積は小さいが「膨大な税金」を宗主国に払わされてきたから、まんざら内政干渉には当たらないんですね。グランデさんやテイラー・スウィフトさん、ガガさんなどの行動は気になっていますね。芸能人だからという岡目八目ではない。一人の人民として当然の振舞いだというべきでしょう。もちろんだれに投票するかはまったく自由、DにしようがBに入れようが、それは投票、表現の自由なので、何人も介入も干渉もできない。

 このような人々のエネルギーを羨ましいとぼくは考えないし、人ぞれぞれの「秋の夕暮れ」なんですね。「桜を見る会」に勇んで、あるいは嬉々として出かける人あらば、なんというバカな、と批判する人もいるのが当然。でもそこに「違法や非法」のにおいが立ち込めているなら話は別。ようするに「ヒトを見る目」を曇らせないことです。(☜ 絶頂だったか、絶壁だったか)

 アメリカでは選挙の成り行き次第では「内乱」「テロ」が起るかもしれぬと、マスコミもまじめに報道しています。あるかもしれないし、そこまでグレてるものかという気もします。でも「個々人の集合体」に過ぎないのも「国の実態」です。ぼくに言わせれば、赤信号を待っている「(烏合の衆ではなく)ただの集まり」です。信号が変われば、離合集散するばかりです。そこに交通整理がなければ、混乱は必然。政治や行政は明らかに「交通整理」に他ならないのに、勝手に信号を点滅させたり消してしまったり、あるいは撤去までする、そんなでたらめのかぎりをつくす政治や行政がいたるところで目につくのです。

 アメリカもよその国においても、事程左様に「デモクラシー」は「でも暗し」なんだね。「健全の中に不健康が」あり、「不健康の中に健康が」あるのが世の習いです。五ミリ前進、六ミリ後退、地上一ミリ浮上、二ミリ沈下。これですよ、人類の歴史は。やがて「突然変異」が繰り返され、いつの日にか「適者生存」状態が落ち着き、弱肉強食、優勝劣敗は消滅する、そんな虹の彼方に思いを馳せているんだ。(この宇宙の歴史、人類の盛衰史は、これまでに何べんも繰り返されてきたという「お話」があります。「掘って埋めて、埋めて掘って」の挙句に絶滅だと。これを「徒労」とみるか、「勤勉」とみなすか。「賽の河原」ですね、どこもかしこも)(☝アメリカの「ミリシア(民兵)」、前回の大統領選時にも登場した。「知事」誘拐も企てたとも)

(余話なさけ 本日「出所予定」だったかみさんはいまだ拘置中。もう少し滞在するそうです。出所祝いを子どもたちと画策していたんですけどね)

_____________________________________

 エル・パドゥリーノがテレビに出たばかりだ

元国防相逮捕!メキシコ麻薬組織のヤバい実態 「まるでゴッドファーザーの世界」と話題

10月15日、メキシコのサルバドル・シエンフエゴス前国防相(72)が家族との休暇のためにアメリカ・ロサンゼルス空港に到着するなりアメリカ麻薬取締局(DEA)に拘束された、というニュースはメキシコのみならず、「リアル・ゴッドファーザーの世界」と、多くを驚かせた。/ 日本でもツイッターでも「映画のようだ」などとトレンド入りをしていたようだが、メキシコではもちろんそれ以上の衝撃があった。シエンフエゴス氏は2012年から6年間、国防相として犯罪組織との闘いを指揮し、あたかも英雄であるかのような厚遇を受けると同時に、国民からは畏怖の念を抱かれていた人物だからだ。

テレビの映像で犯人が「判明」

一方、シエンフエゴス氏の軍人に対する手厚さは相当なもので、ペーニャ・ニエト前大統領の政権下では、軍部は政権による支配から独立した組織であるかのように、大統領でさえ軍部への介入は容易ではなかった。麻薬組織(カルテル)と癒着して罪を犯したとしても外部からの取り調べを阻止することもできたため、軍部からの信頼は厚かった。軍人の中にはシエンフエゴス氏自身が麻薬組織と関係しているといううわさもあったようだが、それは軍の内部で秘密にされていたようだ。/ ところが、地元紙『エクセルシオール』(10月17日付)によると、DEAは1年ほど前からシエンフエゴス氏がアメリカへの麻薬の密輸、ならびに資金洗浄(マネーロンダリング)に関与しているという疑いを持つようになっていた。DEAはメキシコのカルテルの動きをつねに監視し、彼らの交信を秘密裏に傍受することにも努めている。

メキシコの複数のメディアが明らかにしているのは、あるときカルテルに属している人物が仲間との交信中に「エル・パドゥリーノがテレビに出たばかりだ」と言っているのをDEAが傍受した。早速、その時間帯に放映された番組を調査したところ、エル・パドゥリーノと呼ばれている人物というのはシエンフエゴス氏であることが判明した。/ DEAもパデゥリーノという政府高官が、メキシコのカルテルの1つ、ベルトゥラン・レイバによるアメリカへの麻薬の密売に協力している、という情報はつかんでいた。しかし、パデゥリーノが誰か、というところまではたどりつけないでいた。(以下略)(東洋経済・2020/10/21 18:20)(https://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/business/toyokeizai-383046.html?page=1)

*************************

 太平洋の彼方から「愛のテーマ」が流れてきました。シチリア島からではなく、メキシコの「お父さん」が逮捕されたというニュースは「映画もどき」だったのか、あるいは映画の方が「現実もどき」だったのか。今回の劇的展開は、世界各地に存在する「ゴッドファザー」の一人が逮捕されたに過ぎない事件だったと思われます。もちろん、この小島にもいくたの「ファザー」は健在です。時に報道される「麻薬事件」「薬物汚染問題」も、実際は「氷山の一角( tip of the iceberg)」であることに間違いありません。その昔、テレビ草創期に米国渡来の「アンタッチャブル」を、毎回興奮して観たのを思い出します。アルカポネとエリオットネスの宿命の対決、だんだんと兄弟のようにも感じられてきたものです。千九百三十年代の「禁酒法」時代の一コマでした。後に映画化され、ケビン・コスナーが主演を張った。

 麻薬は組織暴力団の重要な資金源であるとされます。ということは、かかる団体が存在している間は、薬は根絶されないということの証明になります。十五年ほど前になりますか、北海道庁・道警・道新その他がある事件で「大地震」のごとくゆすぶられたことがありました。いわゆる「裏金」問題が暴露された、しかもそれが元北海道警察ナンバーツーの告白会見から始まったのでした。原田宏二さんとはあることがきっかけで知遇を得た(上写真中央と左☝☜)。彼から、警察のさまざまな問題や裏話を伺いました。ある時には、彼の部下だった警部が麻薬取締の罠だか陥穽(アリ地獄)にハマって逮捕されるという事案がありました。これは後に詳しく本人が著書にされています。麻薬取り引きの実態が手に取るようにわかるし、取り締まる側と取り締まられる側と「協力者」の関係(つながり)はまるで「家族」というと語弊がありますが、なかなかの紐帯で結ばれていたといわれます。警察がいかなる役割や役者を演じていたか。自作自演まがいはどこでも行われているんじゃないですか。

 この問題は現在にも尾を引いています。裏金隠しは「現在も継承中」だし、事件を報道した新聞社は大騒動に見舞われ、警察官僚の栄転や左遷の発生、警察現場の混乱など、あらゆる関係筋が問題視されたのですが、結局事態は「元の木阿弥」という状態が続いている。「何事もなかった」かの如くではないでしょうか。腐敗は、どんな小さな権力においても生じる。大であれ小であれ、権力である限り腐るし、腐るのが「権力」であると、ぼくは考えることにしています。ぼくのつまらない人生では「発酵」することはあっても、断固として「腐敗」しないことを肝に銘じてきました。微少なりとも「権力」と目されるものには断じて近づかなかった(その機会がなかった)ことを、今はさいわいだったと感じています。(まだまだ書かねばならぬ(と愚考する)素材がありますが、ぼくの仕事でもないので、これでキーの「打ち止め」)

(「元国防大臣が逮捕、ゴッドファザーだった」とは驚きでしょうが、あるいは「元(現)大統領逮捕さる」が近々発生するかもしれない世の中です。この島にも似たような事件はいくらもあったし、今もあります。単に表に出ないだけ。「氷山の一角」「蜥蜴の尻尾切り」は止むことがないのです。「トカゲ」も因果な生き物ですね。「浜の真砂は尽きるとも…」で、石川五右衛門(左は海老さま)は陸続と浮沈をくりかえすでしょう。五右衛門風呂を好む人材も絶滅していない、嬉々として茹でられていますし、彼が六方(東西南北上下)を踏んだ南禅寺はいたるところに林立しています、「絶景かな、絶景かーなあ!」もともと、ヤクザの由来は禅寺からだった)

_______________________________________

 揺れることが大切、固まったら壊れるね

 亡くなって五年が経ちますね、鶴見俊輔さん。ぼくはほんとに教えられました。数回しかお逢いしたことはありませんから、学んだことのほとんどは「著書」からでした。今でも取り出して読むことがありますが、ぼくの頭には「鶴見文庫」があるくらいに、彼の「哲学・思想」(考えた・生きた跡)が整理されないままに並んでいます。

 まず「定見」というものに対する鶴見さんのとらわれない発想というか、姿勢ですね。定見とは何か、というより、「無定見」が批判・非難されることからもその意味するところは判断できます。固定した考えや定まった意見などではないと、ぼくは考えているのです。ある事柄について、一家言持つなどと言いますが、この「一家言」とも違うように思います。「その人独特の意見や主張。また、ひとかどの見識のある意見」(デジタル大辞泉)というのはその通りでしょうが、あの人ならではの「言い方や表現」でもないでしょう。この問題に、あの人なら「こう言う」と、すでに決めつける風があるのは間違いです。

 ぼくは鶴見さんから教えていただいたのは、自分でも驚くような、あるいは(自分の)意表を突くような意見や考え方を、いつでも生めるように「考える練習」(自主トレか)をしておくという態度だったといいたいですね。常識や通念からは自由になる、解放されていなければ、それは不可能です。通念や常識、それは「世間の考え」ですし、「みんなの意見」でしょ。それをソクラテスは「ドクサ(世間地)」(臆見=憶測による意見。無責任な推量に基づく意見。おくけん。)(デジタル大辞泉)といいました。これを取り除くことが彼の生涯の課題であったともいえます。ドクサの吟味、これを彼は「哲学」と言ったのです。ドクサを否定することは世間の通念や習慣を否定することです。だから、彼は死に至ったのです。「常識・世間知」と衝突する場所に自分を置くこと。そこから「カタルシス」が生まれます。間違った、偏見や憶測から解放されることは「魂の浄化」となるからです。

 鶴見さんのされた仕事も、根っ子は同じでした。おやっと思わせる、あれっと意表を突くところから、新たなものが生まれるんじゃないですか。以下に、鶴見流の自在な発想(だと、ぼくがみなした)を、二、三挙げてみます。金も金貸からなら思考も権威に寄りかかる、そこから離れると事柄・現象の正体(性質)がよく見えてきますね。

「私は〈一人の大衆〉という考え方でいきたいんです。大衆の一人じゃない、かたまりの一部じゃない、一個の人間として、自分をいつわらずに生きたい。一人がどう感じるかを大切にするということです。それには、かたまりから自分を引き抜く、かたまりの思想に対抗する立場をなんとかしてつくっておくことなんです」(鶴見俊輔)

「あたえられたものをそのままのみくだす人間になりたくない。つねに新しく自分のいまの状況から考えていきたい。ああも言えるこうも言える、別の見かたがありうるというその揺れを大切にする、…自分自身が何かを求めていることが大切なのであって、すでにそれを得たと思ってしまうのは、まずいんじゃないですか」(同上)

「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね」(同上)

*************************************************

 固まり(全体)の一部ではない、「私」と「全体」が対峙・並存しあうという発想です。固まりに自分を隠してしまう、日常に埋没するばかりか、全体にもまた沈没してしまうことを避けるために藻掻く、それが「私は生きる」ということです。

 また、ぼくたちは世間に同調しすぎていないかと反省してみることがあまりないように見られます。ある人の意見に賛成し、また誰かに言われると、そちらに流される。「権威」に寄りかからない、他人の意見を「うのみにしない」という流儀を貫徹すると、どうなるでしょう。それが鶴見さんだった。もらったものをそのまま自分のもののようにしてはいけないというんですね。AかBか、二択ということは世の中にはまずありせん。賛成か反対か、と問われたら、ぼくは賛成でも反対でもない立場を探します。選択の余地が自分を救うことになりからです。

 さらに言う。学校でも会社でもオヤジでもかみさんでも、当たり前にそれらがもっている「価値」を信じているし、受け入れています。でも無条件に受け入れているものを「そのまま呑み込まない」という姿勢から、また違った自分が現れる。「信じている(と思っている)事柄「ほど、激しく疑えるのです。そして、「疑う権利」は人権の一種。自分から自分の権利を放棄する、案外、ぼくたちはそんなことを平気で(考えもしないで)やって来たし、やっているんじゃありませんか。アランだったか、もっとも強い精神は「もっとも遠い道を歩く(人が疑わないことを疑うということ)」と言いました。疑いから「あるもの(問題)」が現れてくるんですね。疑わなければ、なんにも現れません(問題なし、で終わり)。

「どんな憲法を持とうと、自分の心をこめて生きることなしには、戦争に反対することはできない」―

___________________