ねえ母さんよ僕だって 必ずお国を護ります

(斎藤信夫さんの故郷、千葉県山武市の成東城跡公園内)
  里の秋(斎藤信夫作詞・海沼実作曲、昭和二十年)

 静かな静かな 里の秋
 お背戸に木の実の 落ちる夜は
 ああ 母さんとただ二人
 栗の実 煮てます いろりばた
  
 明るい明るい 星の空
 鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
 ああ 父さんのあの笑顔
 栗の実 食べては 思い出す
  
 さよならさよなら 椰子(やし)の島
 お舟にゆられて 帰られる
 ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
 今夜も 母さんと 祈ります 

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 季節は秋たけなわです。この季節になると、ぼくはいくつもの歌を思い出します。どの季節にも、いわば「季節の持ち歌」というものがある。その大半は「小学校唱歌」ですが、中には流行歌(歌謡曲)も混じっています。なぜ唱歌かというと、それは学校で学んだからというのではない、じつは、学校で学んだものは、ぼくにはほとんどないのです。すべて「学校外」で自学自習したものがぼくの根っ子・背骨になっているといいたいほどです。だから、この人間は偏り歪(いびつ)な育ち方をしてしまったのでしょう。

 唱歌がぼくの季節の印(いってみれば「季語」です)になったのは、幼いころに一人で口ずさんでいたせいだとぼくは考えたりしています。誰に強いられたのでもなく、周りから褒められたいからでもなく、自分一個の好みとして「その歌」を自由に歌いたいという感情の発露だった言えます。この「里の秋」について、すでに早い段階でこの雑文・駄文集で触れています。あえて重複を厭わないでまた雑文にしたのは、それだけ「里の秋」が身に染みるからだというばかりです。海の傍に住んでいると、こんな感じ方はしないでしょう。里山といってもいいような土地に住んでいるからこそ、秋、それも「都会の秋」なんかではない、一種の感傷とも想い出ともつかない、懐かしさをいだいてしまうのでしょうか。寄る年波も加担しています。

 この童謡を最初に歌ったのは川田正子さん。この人の歌を聴いてぼくは育ったといっても間違ってはいません。それほど、戦後の島社会の人口に膾炙した人(童謡歌手)でした。もう十五年も前、例によって「ラジオ深夜便」を聴くともなく寝るともなく、うとうとしていた時に、突然「川田正子さんが先ほど亡くなられた」という声が耳に入りました。驚いたなどというものではありませんでした。仕事から帰宅し、お風呂に入っているときに倒れられたということでした。

 川田正子さん(童謡歌手)が虚血性心不全のため死去
  「みかんの花咲く丘」など戦前戦後を通じ、長く童謡歌手として活躍した川田正子さん(かわだ・まさこ、本名・渡辺正子=わたなべ・まさこ)が06年1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため都内の病院で亡くなったことが23日、分かった。72歳。東京都出身。親族の意向で、通夜・葬儀は密葬で行い、音楽葬を2月5日午後1時から東京都港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。
  川田さんは42年に少女歌手となって翌年に「兵隊さんの汽車」を歌い、関東児童唱歌研究会児童コンクールで優勝。46年に戦後初めて「赤ちゃんのお耳」をレコーディング。翌年にはNHK連続ラジオ放送「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が大ヒットした。他の代表作に「里の秋」「あの子はだあれ」など。今年は歌手生活65周年の記念イヤーだった。(日刊スポーツ・06/01/23) 

 床から出てお線香をあげたことを思い出しました。後年、主宰されていた「音羽ゆりかご会」にも顔を出したこともあります。都内文京区大塚の護国寺(真言宗豊山派)にありましたから、時々散歩がてらに覗いた程度でしたが。戦後も川田さんは歌手として活動されていました。でも、ぼくには少女になるまでの彼女の「喉が詰まった」ような歌声が強烈に印象付けられていました。すべては、師の海沼実さんの(間違った)指導でした。海沼さんと川田さんの母親は後年結婚したこともあり、なにかと家族間で問題があったように聞いたこともあります。(その因縁についても以前、触れた気がします)

「里の秋」に戻ります。

 終戦から4ヶ月経った年の暮れ、NHKでは海外から復員してくる将兵のための特別番組「外地引揚同胞激励の午后」を企画していました。放送は十二月二十四日の午後一時四十五分から。この番組のために海沼先生が作曲したのが「里の秋」です。/「復員する兵隊さんたちが、船で浦賀港(神奈川・横須賀)に帰ってくる。その人たちを迎えるために、ラジオで歌うんだよ。/ と海沼先生が教えてくれました。練習はいつもと同じ口移しでした。先生が私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています。(川田正子『童謡はこころのふるさと』東京新聞出版局、2001年)  

 この曲の作詞は斎藤信夫さん。実はこの詞は戦前というより、太平洋戦争が始まったその日に手が付けられたのです。斎藤さんは「開戦」の報道に大興奮して、興国の一戦に欣喜したといいます。さらに日を次いで作り続けた結果、その年の末に完成しました。曲名は「星月夜」だった。いまは三番、四番が書き換えられました(番組に間に合わせて作られた際に改作)。その元の歌詞は以下のようでありました。「戦意高揚」といものでしょうか。子ども版「露営の歌」だったかもしれません。なお、斎藤さんは当時は船橋市の小学校教員でした。戦後が自らの戦争責任を感じた故に、教職からから退かれた。戦前から斎藤さんは海沼さんと誼を通じておられました。(蛇足 「露営の歌」は古関裕而氏の作曲でした。それを聞くとやはり想像というか、空想がたくましくなり、やがてそれは、「栄冠は君に輝く」に重なり、「鐘の鳴る丘」、「オリンピックマーチ」につながってしまうのです)

 きれいなきれいな椰子の島
 しっかり護って下さいと
 ああ父さんのご武運を
 今夜も一人で祈ります
  
 大きく大きくなったなら
 兵隊さんだようれしいな
 ねえ母さんよ僕だって
 必ずお国を護ります 

 どんなものにも「歴史」はあります。「火」の歴史について、ずいぶん考えたこともありました。その歴史を知っていると知らないとで、何ほどの違いがあるものかと言われるでしょう。その通りですが、性癖の仕業で、「どうして今ある状態になったのか」と、ぼくは知りたくなるのですね。「向学・向上心」などという洒落たものとは無関係です。それも誰かに教えられるのは好まない、とにかく自分で調べる(自分の脚で歩く、自分の頭で考える)ことにしています。単なる情報の域を出ないし、今の時代、ネットで調べられないものはないのですから、以前とは比べ物にならないほど、知りたいというぼくの欲求も生半可なものになってしまいました。しかし、それでも「こんなふうになって、ここまで来たんだ」と知って納得することがあるのです。ものの来た道筋を歩く、それこそが学問です。

 「里の秋」の前世は「星月夜」だったと知って、ぼくは異様な感覚に襲われました。小学校唱歌の歴史には「国体明徴」というのは大げさですが、国民総動員の一環として「小国民」養成の大きな役割を担わされてきたのです。ほとんどがこの歌のように「書き換え」です。「改竄」とは言わないでしょうが、ずいぶんたくさん「国策」にかなった歌詞やメロディに変えられました。敗戦後には元に戻されたけれども。(別の詞になったものもあります)(だから、ぼくは唱歌を歌うと、元の歌詞が透けて見えてくるので奇妙な気分に襲われたりします)

 この「里の秋」にはさまざまな記憶が伴奏・伴走しています。もっとも古いのは母親の母(祖母)が田舎で亡くなった時のものです。ぼくは五歳になっていたかどうか。季節はいつだったか忘れましたが、「お背戸に木の実の 落ちる夜」にお通夜をしていた気がします。つまり、今自分のことでした。その記憶はいつまでも鮮明に残っています。遺体の上に大きな包丁が据えられていました。呪(まじな)いだったかもしれない。次の日には火葬場まで棺を担いで葬列を組んでいった。かなり長い距離でした。小高い山の中ほどに火葬場があったし、その場所から「七尾湾」がみえたのも忘れていません。「骨上げ」したことも覚えています。(今は、時節柄、「オンライン葬儀」ですって。時代ですね)(左は斎藤信夫さん)

 という具合に、ぼくの「里の秋」はだんだんと深まるばかりです。栗の実でも似ますか、老奥さんとただふたり、で。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。