偽りにても誠らしく語るは…

 フィロソフィア(知を愛する=哲学)という言葉を定着させたソクラテスは、自らをアテナイという馬にまとわりつくアブにたとえた。それは彼が国教を否定し、青少年を堕落させると告発された裁判でのことだ▲アブが馬を刺し眠らせぬように、彼はアテナイの覚醒のために人々に問答を挑み、説得し、非難し続けるのだと弁明した。それが「賢者」らの無知を問答を通して暴き、自分は自分の無知を知る者だと宣明した哲学者の祖国愛だった▲だがアテナイ市民はうるさいアブをはたくようにソクラテスに死刑を判決し、彼は法に従い毒杯をあおる。「アテナイのアブ」は常識に安住する者への真理の探究者による批判や挑発のたとえとなるが、それを好まぬ者は今日もいる▲驚いたのは「多様性が大事なのを念頭に判断した」との菅義偉(すが・よしひで)首相の説明だった。日本学術会議が推薦した会員候補6人を任命しなかったことへの国会答弁である。出身や大学の偏りを指摘し、組織の見直しへ論議を導きたいらしい▲この問題の首相の説明はいつも面妖(めんよう)である。まず「総合的・俯瞰(ふかん)的」なる定型句、次は6人の除外前の候補者名簿を「見ていない」との弁明、そして「多様性」だ。いつ何を基準に6人を任命不適と判断したのか、ますます謎である▲さて今後の国会でも野党というアブに、つじつまの合わぬところを刺されよう。ソクラテスの末裔(まつえい)を自負する真理と知の探究者たちも、そう簡単にはこの人事をめぐる問答から首相を解放してくれまい。(毎日新聞2020年10月30日 東京朝刊)

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 「面妖」という単語が出てきました。ぼくには面白い言葉で、自分ではめったに使いませんが、文中に出てくると、ああやっぱりという気分になります。「名誉(めいよう)」の音変化と言われます。あるいは「めんよ」ともいう。一般的には「不思議なこと。あやしいこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)また、副詞的に「〘副〙 どういうわけか。奇妙に。不思議に。」と使うらしい。「名誉」も、元来は、良いことにも悪いことにも両義アリです。このコラム氏はどういうつもりで使われたのか。ぼくはNPMには関心がないが、「嘘も方便」という生き方には寒心するのです。いや、寒心に堪えない。

 この問題を聞かれた最初の段階で、「私は(百五人の推薦)名簿を見ていない」と言った。「下から上がって来たもの(九十九人)を任命した」と。その直後に、官房長官は(推薦名簿は添付資料にあったので)よく見ていなかったという意味」で総理は言われたと釈明、追従。実に面妖。さらに糺されると、「総合的・俯瞰的」と(本にも)意味不明な言辞を(官僚の口移しのまま)壊れた蓄音機のごとくリピート。なんと面妖な。さらに突っ込まれると、「会員に偏り」がある、多様性の観点から「私が任命した」と本心をさらしかける。依然として意味不明ですが。さらに追及されると、内閣府(の側用人)と「考え方を共有して選んだ」と自分だけの責任ではないといい逃れる。面妖が逃げ出しようです。嘘が背広を着ているようだ。前任の「嘘つきぶり」を直近で見据えていたんだ。

 「嘘が嘘を生み、やがてそれは誠になる」ということはあり得ない。ずいぶん昔「偽りにても誠らしく語るは偽りがましからず、又た誠にもあれ、世に希なる事を語れば、偽りがましく聞ゆるものなり」という家康の「箴言」(「家康教訓録」)なるものを読んだことがあります。詳細は忘れましたが、「誠らしく語る嘘は偽りのようには聞こえない」「本当であっても、珍しいことを話せば嘘のように聞こえる」と言ったとされる。これも「面妖」ですね。「狸」か。要約すれば、「誠(真)らしき嘘はつくとも、嘘らしき誠(真)を語るべからず」となるでしょう。この「嘘つきPM」の場合はどうでしょう。彼は「嘘でも本当らしく語れば嘘ではなくなる」という家康の教訓にかなっているかどうか。本当らしくみせかけようとするのでしょうが、はなから「嘘がばれている」のだから、「家康の教訓」には該当しません。「こっちが本当なんだ」と次々に「嘘らしき誠」をいくつも繰り出すのですから、際限のない「嘘の連鎖」が続くばかり。「嘘鎖」「巨詐」のようです。誠らしい嘘は誠、嘘らしい誠は嘘となるなら、万事休す、なのですが、彼を射止めるだけの「弾」が国会にはないのが惜しいというか、寒心に堪えないのです。

 ぼくはプラトンを読みたくて、一時期ギリシア語を学んだことがあります。もちろん、怠け者でしたからものにはならなかった。でもよく「プラントン」は読みました。たいていは田中美智太郎さんの訳でした。この「ソクラテスの弁明」は何度読んだか。ほとんど暗記しました。なかでも、アテナイの「法廷」の場面は圧巻です。当時は陪審員裁判でしたが、ソクラテスは陪審員を手玉に取るように、挑発するようにおのれの哲学を存分に語ります。「誠(真)らしき嘘はつくとも、嘘らしき誠(真)を語るべからず」ということだったか。陪審員には「嘘」に聞こえても、彼自身は「弁明=真実」だと言い切るのです。誠らしい嘘は、ソクラテスにとっては「本当=真実」だということになる。かれには「デーモン」がついていました。「閣下」ではありませんぞ。

 そもそも会員任命問題なんかに現総理が関心や興味を持っているとは思われない。下司(下衆・下種)の勘繰りですが、これは逃げ出した前総理の「遺言」(というのも変、まだ存命中ですから)みたいなもの、「俺の政治に反対した、この連中をぜひ切ってくれ」と懇願されたはず。だから「ときには理由を述べられないこともある」と半分だけ白状していたではありませんか。ものには道理があり、結果には理由(原因)があるのですよ。白々しいとはこの男、まことに面妖至極です。

 ぼくは、自身が下種(ゲス)であることを隠さない、開き直りもしないが、自分は下等な人間であると自覚しているのです。だから「下種の勘繰り」なんです。前総理は「劣等感の塊」だった。これはいろいろな方面の証言でぼくは納得している。こういう人間がどれだけの「恨みごころ」や「猜疑心」の持ち主だったか、わかるつもりです。必ず仕返ししてやるとばかりに「総理の椅子」にのぼりつめたのをさいわいに、次々と「世間に意趣返し」をした。そのために高い椅子に座る必要があった。思いもかけない失策で「ポスト」を投げ出したが、意趣の恨みは忘れていなかった。淡々と標的(任命排除の六人組)を狙っていたから、準備は怠りなかったが、思いがけない計算違いが生じた。だから、恥を忍んで現総理に後事を託したという顛末です。いわば、連携した「意趣返し」です。

 本当は前任者は総理の椅子を譲りたくなかったと思われます。「敵前逃亡」してみたものの、逃げるまでもなかったと今は臍をかんでいるに違いない。あわよくば、再々復活を狙っていると噂されています。現総理にも「劣等感」はあるでしょうが、遺恨を晴らすだけの理由というか、背景がない。二人の出身の違いからも理解できます。(それでも執念深いことは確か)どうしてか、「ときには理由を話せないこともある」ので。いずれにしても、意趣晴らしで政治をほしいままにされてはたまらないとしか、ぼくには言う気もない。適材適所という語はいろいろな場面で使われてきましたが、その意は、「適材は適所に」使うべし、使われるべしということです。使う方にも使われる方にも、「適」とい事柄の的を射た理解がなければそれぞれが不幸になり、その災いの及ぶ範囲はかぎりがなくなります。

 この(前・現)ライアー・コンビがどれだけ不誠実で不穏当な「権力行使」をしていたか。やがて明らかになるとぼくは考えています。「瓢箪から駒が出る」ことになるのか、「嘘から出た誠」となるのか、もはや黒白は明らかですが、この島には国会も検察も裁判も、すべて権力に直結していて、おのれの意のままにならず、本来の機能は端から不全なんですね。でも、悪運が尽きるということは起こるものです。「嘘つきは泥棒の始まり」だって。

 「女は平気でウソをつく」といった女性議員がいました。嘘つき競争を国会でやられてはたまらない。

●エピメニデス‐の‐パラドックス の解説 古代ギリシャ七賢人の一人、エピメニデスにまつわる論理的逆説クレタ島出身のエピメニデスが「クレタ人はみな嘘つきだ」と述べたという命題の真偽を問う際、クレタ人であるエピメニデスが真実を述べているとすると、クレタ人はみな嘘つきになり、嘘を述べていたとすると、クレタ人はみな正直になり、発話の主体であるエピメニデスが正直ものか嘘つきかであることと矛盾する、という説。自己言及のパラドックスまたは嘘つきのパラドックスとして広く知られる。クレタ人のパラドックス。(デジタル大辞泉)(It’s a sin to tell a lie.左上写真のジャケット)

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うそ寒き暗夜美人に逢着す 子規

うそ寒や親といふ字を知つてから 一茶

 この両句の「うそ」は「うす(薄)」だとされますから、寒いと思ったら暑かったとはなりません。ちょっとばかり寒いなあ、冷えるねえ、という塩梅(案配・按排・按配)ですかね。薄い嘘なら、許せますか。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)