人生は無意味である、と仏教は見た

 人生に意味があるかないか、そんなことは問うまでもないことで、「あるに決まっている」という人が大半でしょう。でもほんとにあるか、とさらに問われると、だんだん怪しくなるのも事実です。例えば「この品は千円(の値打ちがある)」と値札が貼られていれば、多くの人は「千円で買う」でしょう。「そんなの、何の値打ちもないよ」といっても構わないが、それを買うことはできないだけです。世の中はすべて、売る人買う人の絶妙の価値(貨幣)感覚によって売り買いが成り立っているのです。価値があるといわれればそうだ、と納得すす。価値(値打ち)は経験や計算によって売る人が買う人の懐具合を詮索して決めるのです。「人が決める」というところが肝ですね。

 それでは「人生に意味があるか」と訊かれれば、どう答えますか。また「お前の人生なんか、無意味だ」と言われることもあるでしょう。ぼく自身も「これまでの人生って、あんまり価値がないな」、と自己評価をしているきらいがあります。あの人より、この点で優れているから「価値がある」というなら、「あの人」を基準に計っているだけであって、別の人が横に来れば、価値や意味がなくなってしまうのではないですか。

 そもそも「人生に意味がある」「人生に価値なんてない」という問い自体が成り立つのかどうか、疑ってみるといい。根拠らしいものは「膏薬」みたいなもので、なんとでもいえるし、どこにでも貼れるような代物です。少しばかり考えかけたところで、面倒くさいなあ、という気になるのが落ちですね。あるともないとも、言えないといっておく方がまだすっきりしますが、それで安心していられるかというと、そうはいかないのも人生の厄介なところです。若い時からの読書の友ともいえる司馬遼太郎さんは短い文章で次のように言われています。 

 「人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということを、うすうす気づいていることである。古来、気づいてきて、いまも気づいている。仏教にしてもそうである。人間は王侯であれ乞食であれ、すべて平等に流転する自然生態のなかの一自然物にすぎない。人生は自然界において特別なものではく、本来、無意味である、と仏教は見た。これが真理なら、たとえば釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、しかし釈迦は人間の仲間の一人としてそれでは淋しすぎると思ったに違いない。

 このため、釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした。本来無意味の人生においてこれ以外に意味を見いだせないというのが、仏教のように思える。 

 しかし、われわれ現代に生きている者としては、その程度のことをわざわざ悟るなどという面倒なことを、ほとんどのものがしたくないと思っている。(「富士と客僧」『司馬遼太郎が考えたこと』⑦所収、新潮文庫)

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 もうこの先を続ける必要もないと、ぼくは考えています。司馬さんの短い指摘でもうじゅうぶんに「人生の意味」問題に関しては終わっているといえるからです。犬や猫を、ここに持ちだすのも気が引けますが、果たして彼や彼女は「私の生きる意味」があるかないか、薄々でも気づいているでしょうか。当事者にはなれないからわからないというのが正直ですが、あえていえば、どうも考えたり感じたりしているとは思えません。その点では人間とちょぼちょぼだとも言えます。牛や馬に価値があるかどうか、と問うのは彼や彼女自身ではないでしょう。あくまでも馬や牛に関係している人間の側が「意味のありなし」を決めている風情ですね。競走馬や農耕牛に育てて、それで一儲けを企んでいるのですから、あくまでも価値を決めるのは人間の方です。こんなことはすでにギリシアの昔に考えられていました。価値というのは「アレテ―」とよび、卓越性などという意味を持たせていました。馬は早く走る、牛はよく耕すという具合です。

 人生に価値なんかないんだ、とぼくたちは気付いているのですが、それではあまりにも惨めであり、生まれてきた甲斐がないと思いたいのも「人情」です。その反対はどうでしょう。「価値がない」と決め込んで「人生という勝負を放棄しちゃえ」となるケースもあるでしょう。生きていても意味がない、生きる意味を見出せない、と思い詰める人がほとんどでしょうが、なかには衝動的に死に駆り立てられる場合もあるに違いありません。暗い話題ですが、じつはもっと大事なことを言いたいがために面倒なことを言い出したのです。つまらないから、人生を放棄する、楽しいからもう少し生きていたい。あくまでも「人生の主人公」はその「生の持ち主」なのかどうか。ここをもう少し丁寧に考えてみたいのです。

 数日前、大阪市内で悲惨な事故(事件)が発生しました。報道によると、以下のようです。

  高校男子がビル屋上から転落死、知人と歩く女子大生巻き添え…重体に

 23日午後5時50分頃、大阪市北区角田町の商業施設「HEPヘップ FIVEファイブ」(10階建て)の入り口前の路上で、通行人男性から「2人が倒れている」と119番があった。消防が駆けつけたところ、若い男女2人が倒れており、男性は搬送先の病院で死亡、女性は意識不明の重体。防犯カメラ映像などから、大阪府警は、男性が施設の屋上から飛び降り、路上にいた女性が巻き添えになったとみている。男女2人が倒れていた現場周辺を調べる捜査員ら(23日午後6時23分、大阪市北区で)=関口寛人撮影

 府警曽根崎署によると、死亡したのは大阪府内に住む府立高校の男子生徒(17)。重体になったのは兵庫県加古川市の女子大学生(19)。/ 施設を所有する阪急阪神不動産によると、直前に施設10階の従業員専用フロアの防犯カメラに、男子生徒とみられる人物がエレベーター前に立っている様子が映っていた。

 10階から屋上に出るドアは普段は施錠されているが、非常時に備えて誰でも壊して開けられるようになっている。開けると警備室のブザーが鳴る仕組みだが、警備員が屋上に駆けつけた時は、誰もいなかったという。/ 男子生徒は私服姿で、屋上には学生証が入ったかばんが残されていた。府警は男子生徒が自殺を図ったとみている。/ 女子大学生は施設の入り口前の路上を知人女性と歩いていたところ、背中付近に男子生徒が転落してきたという。(以下略)(読売新聞・2020/10/24 07:57)

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 事故後に女性は亡くなられたという。事故の詳細がわかりませんから無責任な推理はしない方がいいと思う。しかしこのニュースを見て、ぼくは「人生の意味」「生きる価値」という、考えても埒のあかない問題に誘い込まれたのです。若いころから、こんな問題を執拗に追いかけてきたようにも思いますし、いくら考えても答えは出ないことも、実ははっきりと知っているのです。にもかかわらず、この問題は時に生活の只中で生まれて、一時の「思考の自由」を奪うのです。生きる・死ぬという問題はどこまで行っても埒は開かないのは分かりきっていますが、世の中の仕組みや都合によって「意味ある人生」「価値がない生き方」などと評価されている、それが現実なんですね。そこでは「世の中」が仏であり、神なんです。

 なぜ高校生は飛び降りたのか、今となればだれにもわからない。書き置きがあるかもしれないが、真相はカスミの如しです。一方の、被害に遭われた女性は、まさか「ここで人生を閉じる事故に遭う」とはおそらく微塵も思わずに歩いておられたでしょう。じつに偶然の差配(非情)というべきか。ぼくには言葉がない。死のうとしておのれを放棄した人が他者を巻き添えにするという、二重三重の想像外の事故だったというほかないのです。二人の霊前に頭を垂れるばかりです。

 ここまできて、さて「人生の価値」云々とどうしていえるというのか、ぼくを立ち竦んでいるのです。どうにかして「人生の意味」を重いものにしたい、「人生には価値がある」とはっきりと肯定したいのは山々ですが、その根底に不安や危惧の念が蠢いているのですから、砂上の楼閣とは言わないまでも、びくともしない、しっかりした土台の上に「私の人生」は乗っかっているのではないことも疑えないのです。

 「釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした」というのは司馬さんです。「花は咲いたら、枯れて散る」そこに「意味」を見つけられるならどうぞ、だれがいてもいなくても「花は咲いて、枯れて散る」これを悠久の昔から無限に繰り返してきたのです。人間も同じじゃないか、というのが司馬さんなのか釈迦なのか、どちらでもいいんですが、無意味なところに、あえて意味を見出して「生きる手がかり」「人生の支え」を得ようとするのでしょう。それが仏教の持っている効用だとも言えます。

 それじゃ、キリスト教ならどうか。司馬さんいうところの釈迦のような「人生観」を、その教義は持っているのでしょうか。ぼくはキリスト教徒ではないので詳細は分かりませんが、釈迦よりもキリストはもっと人間の立場(弱い側)に立って、「生きる価値」や「人生の意味」を語っているようにもぼくには思えるんです。いくらでも引用できますが、今は止めておく。結論を言うようですが、人間の分際ということを忘れたくないといいたいのです。分をわきまえるというのは、人間の条件、置かれた状況を失念しないことを言うのではないでしょうか。(少し長くなりそうな危惧を感じますので、この「つづき」は次回に譲ります)

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 あらゆる状況を考えると、銃は必要だと思う

(射撃を練習するガーランドさん)(2020年 ロイター/Mike Segar)
 44歳のシングルマザー、アンドレヤ・ガーランドさんは、ミドルクラス中心の風情ある街・ニューヨーク州フィッシュキルで3人の娘とともに暮らしている。今年5月、彼女は護身用にショットガンを購入し、撃ち方を習うため、地元に新しくできた射撃クラブに加入した。クラブの規模は急速に拡大している。/  その後、ピストルの所持許可も申請し、ますます品薄になる弾薬類が入荷しないか常に気を配っている。地元のウォルマートに週3回は通うが「いつも品切れだ」と彼女は言う。/ 今年、米国の銃器産業は記録的な売上高を達成しているが、それを支えているのは、ガーランドさんのような初めて銃を購入する多数の顧客だ。彼女が銃器購入を決意した理由の一端は、気掛かりなニュースが重なっているためだ。新型コロナウイルスによるパンデミック、警察による黒人殺害をめぐる社会不安、そして多くの人が「選挙」の結果をめぐる紛糾が暴力事件につながることを心配している。/「周囲のあらゆる状況を考えると」とガーランドさんは言う。「銃は必要だと思う」──と。(中略) 
  ロイターが10数人の業界専門家、研究者、銃砲店オーナーに取材したところ、今年の市場拡大には、女性やマイノリティ、政治的にはリベラルで、これまでは銃所有など考えたこともなかった人々など、新たに殺到した初回購入者が含まれていたという。/「ふだんなら銃について考えもしない人々が、自分たちの領域以外のことを真剣に考えざるをえなくなっている」と語るのは、イリノイ州シカゴ郊外のデスプレーンズで銃砲店「マクソン・シューターズ・サプライズ・アンド・インドア・レンジ」を営むダン・エルドリッジ氏。/ 業界アナリスト、業界団体、さらには大手銃器メーカーであるスミス&ウェッソン・ブランズのマーク・ピーター・スミスCEOによれば、今年は初回購入者の数が急増しているという。/ スミスCEOは9月3日、投資家とのオンライン会議の中で、今年の売上高の約40%が初めて銃器を購入する顧客になるとの推定値を示した。同氏によれば、これでも控えめな予測で、過去数年の「全国平均の2倍」に相当するという。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/10/post-94802_1.php

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 彼の国は長い間、「世界の警察官」と自他ともに任じていたといわれていました。だからあらゆる人が銃にアプローチするのは不思議ではないのでしょう。だが、見方を変えれば、銃がなければわが身さえ守れないということの証明でもあるのです。前回の選挙時にも銃購入者の急増が話題にされていました。民主党が勝てば、…。ぼくは狭い了見というか、管見のかぎりで、米国は「憲法にロイヤリティ」を示す国と聞かされていました。憲法が主人というか中心であり、その下に人民が集う、約束するという政治・社会の姿が深く印象付けられてきたのです。しかし、その反面で「世界の介入者・節介者」であるという姿も、これまでにいかんなく発揮してきたのは事実です。アメリカの権力に楯突く、気に入らない勢力が政権を握る、そうなれば必ずと言っていいほど、「軍事介入」して政権を転覆させてきた、使われる手段は様々ですが、自国の軍門に下らせてきたのです。その典型はこの島の「戦後の歴史」です。戦後は一貫して「軍門に下り放し」であるのは承知の事実です。

 国内にあっても、権力を握ったものの意向に沿わなければ、「引金を引く」という並外れた「規則」を持った社会であるようです。いまはあらゆるところで分断、断絶が叫ばれていますが、最後の手段は武器を携帯した(行使した)暴力でしょう。実に長い間、この国では「銃規制」が問題視されてきましたが、いっかなそれが実現する兆しは見えてきませんでしたし、いまでは銃の保持は市民の権利でさえあるという具合です。事柄や問題を「銃で解決」するのが、表向きはデモクラシーの先進国と称されるアメリカの「解決法」だというわけです。銃付き民主主義だった。(「ホおじさん」の写真を出したついでというのも変ですが、この半月間、ベトナムに台風が数次にわたって直撃し、フエをはじめとして各地で風水害が発生しています。多くの死者も出ています。被災に合われた方々のご無事を祈りつつ、さらにご注意されますように、島社会の一隅から祈っています)

 ぼくは秀吉が断行した「刀刈り」以来、戦後まで時の権力者は一貫して民衆の「武器所持」を規制してきたことに、一定の理解を持つものです。でも、武器は国家権力が独占するという現実にも問題ありと考えています。ここで詳細は述べませんが、この島の「銃刀法」ほど奇妙な規制法はないように思います。まるで笑いばなしにもならないようですが、ある大工さんが「検問(職務質問)」を受け、車内から大工道具が出てきたので逮捕されたという事件がありました。また工事関係者が一本のドライバーで拘束されるという事案もありました。何が武器なのか、権力が認定するという行き過ぎもあります。武器の一極集中です。 

 さて米国の「現実」に戻ります。まことしやかに、杞憂(内乱・第二の市民戦争などと)が語られています。「杞憂」で終わればいいのですが。そうでない恐怖、あるいは危険性が除去できないほどに、対岸の大国も病んでいるということでしょう。間違いなく、その病は此岸(この島)にも押し寄せてきます。すでにこの島でも罹患者は少なくないようです。さらに悪化するのか。これまた「杞憂」では終わらない恐怖があります。ここまで事態を放置していたのはだれなのか、なぜなのか、世界の知恵を出しても間に合わない状況かもしれません。「戦争は他の手段による政治の継続である」(クラゼヴィッツ)

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