
小社会 すり替える
カンニングが見つかった大学生と見とがめた教員がやり合う。学生はこう開き直った。「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかった者が損をするのですか」/「レトリックと詭弁(きべん)」(香西秀信著)という本から実話を引いた。何やら交通違反で捕まった人も言いそうな言い訳だが、著者はこの学生の論理のすり替えを指摘する。問題は自身の不正行為であり、要領のよい者が得をするかどうかは関係ない。
またカンニングの責任を免れるため教員の詰問をずらし、世間の仕組みを聞くような別次元の質問を返している。議論をする時は「問う者」が主導権を握る。研究の世界には「問いは議論を制す」という言葉もあるという。/ 日本学術会議の問題が思い浮かぶ。首相は、なぜ任命を拒否したかという問題の核心をいまだに説明していない。さらに、政府と自民党は会議の行政改革論議を始めた。疑問に答えないまま、「会議のあり方がおかしい」と別次元の問い掛けにすり替えたように映る。

会議OBは終身年金を受け取れる。中国の軍事研究に協力している―。自民議員が発信して否定、修正された誤情報もある。首相を援護射撃したいのは分かるが、詭弁が交じっているようでは困る。 / 政治はもっと誠実に、堂々と民衆の疑問と向き合う姿勢であってもらいたい。不正をとがめられた学生ではないのだから。(高知新聞2020.10.21 08:00)
*************
連れ合いが昨日入院した。いつものように朝五時に起床し、猫たちに食事をやろうとして、ふと時計を見ると四時でした。暗いんですね、まだ。朝焼けがじつに美しかった。その直前まで N*Kの深夜ラジオを聞いていた。「お弁当の時間」とかいうタイトルのインタビューでした。テレビで数回見たことがある「サラメシ」という番組の担当カメラマンとその妻とそのお嬢さんの十年間だったかにわたる奮戦の弁(当)だった。内容は省略するが、弁当は明確な「メッセージ」だといわれていた。「メッシはメッセジ」だと。

ぼくは中学校以来、自分のことは自分でする癖がついた。掃除も洗濯も弁当作りも。時間があれば自分以外の家族の分にも手を出した。その癖(悪習)は今も治らない。炊事や洗濯、掃除はお茶の子で(「茶の子」の美化語。茶を飲むときにつまむ菓子など。《腹にたまらないところから》たやすくできること。朝飯前 (あさめしまえ) 。「そんなことはお茶の子だ」デジタル大辞泉)、それをだれかにされてしまうとがっかりというより、気分が悪くなるのです。自分の仕事を奪われた気になるからです。それをしているときばかりは「無心」になります。それが最高にいいですよ、まるで「山登り」みたいです。ただ登るために一歩を重ねるだけ、そんあ効果を期待しない作業が人には必要です。
深夜便というラジオ番組を聞いていて(開始以来、三十数年聴いています。夜十一氏過ぎから朝の五時まで。ほとんど毎日聞いて寝る、寝て聞く)、五十年も六十年も前の朝がありありと浮かんできました。「弁当作り」です。「サラメシ」ならぬ「ガクメシ・ガキメシ」とでもいうのか。不思議な気がしました。ラジオの語り手は「弁当はメッセージ」と言われたが、はたして、ぼくはだれに何のメッセージを伝えていたのかと考えた。自分のことは自分で、と言い聞かせながら作っていたんだと気がついた。弁当が「ことづて」なら、どんな文章も(もちろん、ぼくの書くような雑文・駄文でも)言伝(ことづて)なんだと思い当たった。なんだつまらぬ、いまごろそんな、という気もしなくはないし、自分でもいまさらとわかっているのですが、あらためて「コメのご飯がメッセージ」なら「文字のご飯、つめあわせ」もまた言伝なんだから、と。猫の食事も済んだし、駄文を書くぞという気分になり、各地の新聞のコラムに目を通したというわけです。(六時前です)

「小社会」という言葉を昨日だったか使ったので、気になって高知新聞をネットで開きました。あれえ、と思いました。カンニングを見つけられた学生(この人は男だという気がしますが、それはぼくの偏見?女性であったと思いませんでした)が「ほかにもやってるじゃん。なんで俺(わたし)だけが…」と教師を詰問する図が述べられ、次いで「学術会議会員任命拒否問題」を俎上に載せて、「議論のすり替え」「誤情報」「詭弁」などと、権力擁護側の理屈に目くじらを立てる風をみせる。そして「政治はもっと誠実に、堂々と民衆の疑問と向き合う姿勢であってもらいたい。不正をとがめられた学生ではないのだから」と爽快な結語を書かれたと「ほくそ笑んだ」と思われたと、ぼくは邪推します。無理ですね、八百屋で魚を買うことができますか、と言いたいわ。
このコラム氏の学生への偏見というか、政府や権力側に対する忖度というかオベンチャラにぼくは呆れました。高知でそれを言うか、というわけでもありませんし、「自由は土佐の山間より出づ」を持ち出す要はないのですが、なんでこうなんですかと、怪訝に思った。学生は姑息で政治家は堂々、という図式ですね。
学生が自己弁護や責任逃れをするのは仕方がないけれど、政治家はそんなんじゃ困るといいたいらしいのですが、違うね。ぼくは毎日のように各地の新聞「コラム」をネット上で読みますが、年年歳歳つまらなくなり、あるいは読むに堪えないと思うようになった理由について、それはこのような紋切り型の観念主義、それも「時代おくれ」の固定観念を元手に文章をでっち上げるせいではないですか、と言いたくなりました。「小社会」のコラム氏を悪く言うのではない。(この書き手は若いか)これ以外に素敵な文章や記事を書かれているかもしれないので、断言はしませんが、頭が固くて了見が狭いという点だけははっきりしているとぼくは言いたいね。(無料だからと)よく読む癖に、ケチをつけるようで申し訳ありません。

(新聞記事に優劣をつけるのが趣味ではありません。でも驚くばかりの凄惨な程度の(高くない)記事もあります。新聞記事は短く要領よくが命なんでしょうが、そうなると、紋切り型(*もんきり‐がた= 紋形を切り抜くための型。きまりきった型。かたどおりで新味のないこと。「紋切り型の祝辞」デジタル大辞泉)が幅を利かせます。「秋冷の候」や「晩秋のみぎり」などというやつです。これではどんな面白そうな内容も「つまらない」ものに、かならずなります。ぼくの雑文なんかは、その典型でしょう。ぜひ他人様に読んでいただこうとか、書いて金をもらうのが目的ではなく、おのれの「精神の自主トレ」(ついでに身体の)だから、被害者は自分一人という気楽さがあります。(でもネットを使う以上、間違って人目に触れる恐れもありますから、でかい口はたたけない)
カンニングをしたくなるような問題を作った教師の側には一切触れていないのも、明らかな落ち度ではないですか。この点に思い当る方が多いと推察しますが、「試験」は人間に対する愛情や期待、あるいは成長への栄養素を少しも含んでいないのが学校で罷り通るという摩訶不思議さにぼくは驚嘆しています。誰にも同じ問題を出すから、順番を着けたくなる。優劣を自他に明らかにするのが目的になってしまうんだね。だれもが可哀そうな気がします、先生も生徒も親たちも。どんな問題でも先生自身が作ればいいものを、業者から金を出して買うんですから、これは買収みたいなものです。どこにもつける薬がないんだ。

何を見てもいい「試験」、時間制限のない(十分や五十分の制限なしという意)「テスト」をなぜ作らないんですか、生徒が問題を作る「試験」だっていい、そんなことばかり学校にいるころから考えてきました。なにを持ち込んでも(見ても)いい試験問題、それは何を見てもアカン、自分の持ち合わせの経験や知識で勝負するということでしょ。カンニングという狡知を踏み潰すのもまた「学ぶこと」の大切な要素なんだ。「狡知」は早いうちに芽を摘むことです。自分の脚で立つ、自分の頭で考える、それが「試験」のもっている効用・効能だと、ぼくは考えてきた。なかなか自分の脚で立てないままで「後期高齢者」(この表現のみっともないことったら)なんだよ。(「後期…」の次はきっと「末期…」になるに決まってる。そのあとは「終末期…」と凄いことになるね。厚労省という役所は戦前戦中は…、とだんだん腹が立ってきました。虫唾がは走り出した。(これから病院行きです、自分のために、じゃありません。9.00AM)
_____________________