算数ができそうな目をしてんなあ

 生活しょった先生が好きだった=映画監督・小栗康平さん(京都新聞・2020/09/06)

 少年時代を過ごした50年代というのは、社会が安定していなくて、でこぼこがいっぱいあった。勤評闘争が盛んで、授業が中止になったり、先生が教室以外でも意思表示をしていた。印象にあるのは、小学校5、6年の担任の井野勝弥先生。無頼な感じでね。それが僕が大学に入ったころだったか、校長になった。学校訪ねていってね、「どうして校長なんですか」と聞いた。「試験受けなければ、そうはならないでしょう」なんて畳み掛けたりして。いやなガキだったね。先生はいつも酒のにおいをさせていて。生活しょってる雰囲気が大好きだった。

 中学に入ると、英語で1人称の表現に出会い、新鮮な思いがした。ひとりの人間として大事にされた気がしてね。その延長線上に失敗談があるんだけど、3人称のHeとSheで、僕はなぜかHeを「彼氏」と訳しちゃった。彼氏と彼女が、なんてことになって、ドキドキしちゃうわけ。赤面ものですよ。でも、これで大人なんだと思ったりして。

 自分のことなんて興味なかったのが、高校でその反動がきた。気になる先輩のいた社会科学研究部に入って、「よし、おれも暗くなろう」と。マルクスから毛沢東から、よく分からないけど、とにかく噛(か)もうと。そのツケもくるんだけど、噛み切れなくても噛んでみるというのは大事。先生の家にもよく行ったな。やっぱり、いまは先生が学校に生活を持ち込んでいない。自分の生き様をさらさないで、どうして教育ができるのか。教えたがり屋で世間を知らない教師がすごく多いように感じますね。

 小学生向けの学習塾を経営している仲間がいるんだけど、「お前、どうやって算数教えるんだ」と聞いたら、じっと子どもの顔を見て、「お前は算数ができそうな目をしてんなあ」。それで終わり。僕は正しいと思う。ヤル気というか、学力以外の人間の力に先生が触れれば、後は放っておいても大丈夫。ノウハウが役に立つのは途中だけであって、出発とゴールは人間の力ですよ。そこに触れない学校現場はだめだと思う。<聞き手・千代崎聖史>

 ■人物略歴 1945年群馬県生まれ。81年「泥の河」でデビュー、毎日映画コンクール監督賞。「死の棘(とげ)」がカンヌ映画祭で「グランプリ・カンヌ」「国際批評家連盟賞」に。最新作「埋もれ木」が公開中。(毎日新聞「学校と私」-2005/9/19)

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 最後の部分がいいでしょ。ノウハウが役立つのは途中だけ、後はその人の力だ、と。

 ここにも「教える」よりも「育てる」ことの大切なことを言い当てている人がいるようです。ほめることは意外に効き目があるんです。犬や猫にも、効果は抜群。人間だったら、なおさらです。ほめられる反対の「けなされる・侮辱される」ことに対する反応をみれば分かるというものです。犬でも猫も、人間ならことに自尊心があるからです。自分のことを大切にしたいという感情です。

 学校教育の冷たさは、ほめればつけあがるとでも思いこんでいるみたいに、けなしたりくさしたりするばかりですね。それは教師の生活経験に加えて、学校という組織や制度のいいようのない冷徹さに起因していると、ぼくは考えています。「お前、できそうな目をしてんなあ」それで、終わり。どんな人でも、自分のことは自分でやりたいんですね。だれかに命令されなくとも、(命令されるよりは)自分でやりたいに決まってるんです。教師は子どもに対して抜きがたい偏見や先入観を持っているのかもしれません。それがことごとく、子どもの自立には障害(さまたげ)になっているんですね。この点について、ぼくには確信があります。親もご同様と言えそうです、我が子、だから「煮て食おうが、焼いて食おうが」という恐ろしい子ども観を疑わないようです。だんだんと、そのような固定観念の呪縛から離れられるといいのですが。

 映画についてはほとんど知るところはありません。ぼくに人生のもっとも欠けている部分です。映画をまったく見なかったわけではなく、世に「いい映画」「名作」と称されるものはまったく見ていないのです。今では自分でも信じられません。なぜ見なかったかというのは、いかにも愚問だし、それをこの年齢で再確認するのも無意味ではないにしても、あんまり感心できないように思われます。読書についても同様で、たくさん読んだような気もしますが、まったく重要な本は読んでいないという慚愧の念もあるのですから。 

  ここでは小栗さんの学校観、教育観、あるいは教師観に触れられれば、それで十分だという気がします。「ヤル気というか、学力以外の人間の力に先生が触れれば、後は放っておいても大丈夫。ノウハウが役に立つのは途中だけであって、出発とゴールは人間の力ですよ。そこに触れない学校現場はだめだと思う」と、なんとも大事な指摘というか、経験談ではないですか。構いすぎは人でも動物でも植物でも、すべて柔(やわ)にしてしまいます。芯が萎れがちになるのでしょう。自力で跳ね上がる力を殺いでしまうからです。人それぞれの歩幅や歩調(成長の度合い)がちがいますから、それぞれにどれだけ近づけるかが教職の首尾不首尾の分かれ目かな。また、ある事いい関係に慣れても、同じやり方は他の子では、まず通用しないものです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)