教員のわいせつ行為 子ども守る体制の強化を

児童生徒らに対するわいせつ行為で教員が処分されるケースが後を絶たない。/ 文部科学省の調査では、2018年度に全国の公立小中学校や高校などで処分された教員は282人と過去最多に上った。
信頼する先生に裏切られた子どもが心に負う傷は深い。/ 見過ごせないのは、懲戒処分を受けて失職した教員が他の県などで処分歴を隠して再任用され、再びわいせつ行為に及ぶ例があることだ。現行法では免職による免許の失効期間は3年で、再取得が可能だ。/ 文科省は、各教育委員会が全国の教員の懲戒免職処分歴を閲覧できるシステムを見直す。現在検索できるのは過去3年分だが、来年2月から40年分に延ばす。古い処分歴の見逃しを防ぐ狙いだ。/ だが、このシステムではそもそも処分の具体的理由は分からない。詳細は処分した自治体に聞くしかないが、個人情報として教えてもらえないこともあるという。/ システムの管理を徹底したうえで、自治体間で情報の共有化を一層図るべきだ。

保護者らでつくる団体は、わいせつ行為で懲戒免職となった教員に免許を再交付しないよう求める署名を文科省に提出した。/ 文科省も処分の厳格化を打ち出しているが、「永久剥奪」にすると職業選択の自由に関わるため、慎重に検討している。/ 処分に至るケースは「氷山の一角」といわれる。教員と子どもには立場や力の差があり、被害に遭っても声を上げられない子どもが少なくないからだ。/ 被害実態を把握するには、聞き取り調査を定期的に実施することが効果的だ。疑わしいケースがあれば、教委や学校と距離を置く第三者機関を設置すべきだ。
今の教員は子どもの悩み事への対応も求められており、子どもの信頼を好意と勘違いする場合がある。子どもの相談にはスクールカウンセラーらと連携して取り組む必要がある。/ 教員の意識を高めるため、研修の充実も欠かせない。/ 子どもは教員を選べない。子どもを守ることを最優先に、教員のわいせつ行為に歯止めをかけなければならない。(毎日新聞2020年10月20日 東京朝刊)
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あたかも「聖人君子」面して、この問題にコメントをするのではありません。どうしてこんなことが、というのですが、学校は「社会の一つ」です。ある哲学者は「小社会」だといいましたが、「小なり」と言えども明らかに「社会」「集団」であります。ただし、そこには通常の社会集団に見られない特質があ認められる。まず、明確に分断された社会であるという点です。「大人と子ども」に二分されています。また、他には見られない現象として、子どもたちは「年齢集団・学年(コーホート)」によって序列化されている。また、大人と子ども関係は「上下」というか「優劣」ともいえるような「授けるー授けられる」「教える―教えられる」という、垂直の関係が成立しています。その他にもいくつかありますが、これだけでも特異な構造や制度であることがわかります。
といった上で、だから「わいせつ行為」で処分される教員が多いのだというのではない。反対です。誤解されそうですが、「不届き行為」に及ばない自信(自制力・自己管理・注意深い人)のある人がつく職業であるといいたいのです。処分後三年経過すれば、教員免許再取得可能なように、現行法ではなっているといいます。他地域で採用されることもあり得ます。これを「取得禁止期間は五年」に延長するのも一策でしょうが、あるいは十年に延ばしても「処分」されるものはいなくならないでしょう。いい例じゃなさそうですが、例えば「飲酒運転」と「処分(免許取り消し)」の事例を考えてみればどうでしょう。

簡単に言いますと、どれだけ厳罰化しても「飲酒運転」違反者はなくならないということです。事実がそれを示しています。だから、罰則強化は正解ではないといっても、(他に方法がないのだから)厳罰化が目指されてきたし、これからもその方向に進むはずです。ひるがえって、教員処分、免許取り消しについてはどうでしょうか。ぼくは基本において「違反行為」をするのは「不注意な人間」だからであると考えてきました。交通事故を起こすのも、人間(交通)事故を起こすのも根っ子は同じです。ここで、もう一度、人間が育つ・人間を育てる「教育の初心・原点」に戻ることになります。迂遠な話ですね。まるで地平線に向かって進むような、手ごたえのなさです。

そんな暢気なことを言っても始まらないといわれそうです。確かに、とぼくも思いますが、まず「隗より始めよ」です。この点については今までたくさんの駄文を費やして述べたつもりです。今現在教職にある教師の問題をどうするか、これに対処するには、処分基準を明確化し、罰則強化をすすめ、さらに免許取り消し制を導入したらいい。「職業選択の自由」というけれど、同じ公立学校の教員になるための門戸は閉ざすけれど、他種の学校教員への道は閉ざされないということもあり得ます。それででも、事件が起こることを防ぐことは不可能です。学校は一つの社会ですから、「性犯罪」は撲滅できない。さらに大切なのは子どもへの対応です。「教師を見たら…と思え」と、教え(言わせ)たくなりそうですが、それは間違いです。ダメはダメ、おかしいことはおかしいとはっきり言うことができる「能力」を、子ども自身が育てることです。それを助けるのが教師の仕事であり、両者相まって「教育」は成り立つのです。

ぼくは「聖人君子」ではないと、わざわざ断る必要もない。いろいろな面で「弱さ」を持っています。欠陥だらけの人間です。だから「自分には足りない点」「欠けたところがる」ということを肝に銘じて、そこから解放されるように精進する(自分を育てるという意味)、それが何より大切だと、当たり前に過ぎることを、いまさらのように思うばかりです。「人間の弱さ」というものの限りなさをいつでも念頭に据えておくことが大事ですね。「浜の真砂」のような話ですが、一歩ずつ進むほかありません。(学校内に、醜悪な景色ですが、「ステッカー」を貼り付けるのも一法じゃないですか)
浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ(五右衛門)
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