實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ

明治三十三年四月五日(三十五歳)

  地軸  母八重

 偉業は一人ではできない、陰に日なたに人がいるからこそだと思う。正岡子規は多くの友人らに囲まれたが、長い病床生活を最も身近で支えたのは言うまでもなく母の八重と妹の律▲あまり光の当たることがない八重を取り上げた特別展が、松山市立子規記念博物館で開かれている。松山藩の儒学者、大原観山の長女として生まれ、夫の病死後、幼少の子規と律を親族の助けを得ながら育てた。苦労は並々ならぬものがあったろう▲子規は「内藤先生へあつかむやうな言葉甚だよろしからず」と八重にたしなめられ、年長の内藤鳴雪にわびる手紙を送っている。人前でなく後で叱られたと見え、出しゃばらないが道理や礼儀を重んじ、毅然(きぜん)とものを言う八重の人柄が浮かぶ。指摘を受け入れる子規の信頼ぶりも▲「寒さうに母の寝給ふ蒲団哉」「行く年を母すこやかに我病めり」。八重を敬慕する子規の思いは、句や文章のそこかしこに▲「サア、も一遍痛いというてお見」。布団に斜めになったまま亡くなった子規の体を直そうとしたとき、強い調子で言ったと河東碧梧桐が回想している。静かで何事にも動じなかったという八重。人前で取り乱したのは、唯一このときだけだったのではないかと想像する▲母の強さやすごみ、温かさを改めて感じさせられた。秋の夜空を見上げ、親子のかけがえのない姿を思う。「タラチネノ母ガナリタル母星ノ子ヲ思フ光吾ヲ照セリ」子規。(2020年10月19日(月)愛媛新聞)

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「地軸」という言葉も好きだし、それが表わす地球の姿にも感動に似たものを覚えます。愛媛新聞も、熱心な愛読者ではありませんが、ネットで読める程度の記事には目を通してきました。もちろん「地軸」は毎日見張っています。この「地軸」は何度傾いているのでしょうか。松山だから、子規ものは安心して読めるというのは、ぼくの先入観ですが。

 最近のWEB版記事には多くに鍵マークがついていて、有料となっています。当然と言えばそうですが、なんか意地悪されているようで、気分は愉快ではありません。看板の「コラム」さえ有料なのがありますが、大した度胸だと思いますね。でも度量が狭いんじゃないですか。スーパーのトイレットぺーパー並みに、店頭に出す、ただで持っていけ!(そんな店はないけど、あったらいいね)、複数の記事の中で有料と無料が入り混じっているというのはどうなんですかね。ネットものは無料が相場だとは思わないけど、この先の変化が気になります。 

 子規にはいろいろな逸話があります。(それはまたの機会にして)漱石との交友は、ことのほか熱いものがありました。今思っても羨ましいというほかありませんし、その出会いと別れに、ぼくはかぎりない哀惜の情を掻き立てられるのです。子規は俳句の革新を成し遂げ、病床にありながら、宇宙の森羅万象に関心を持ち続けた人だった。また、高浜虚子をはじめとする後輩たちにもじつにていねいな交わりを欠かさなかった。いわば「水平のつながり」でした。彼の人に対する優しさは母親の影響大であったでしょうが、それに反して妹の律さんには厳しかったし、冷たかったと思われるところがありました。(このあたりについては機会を改めて)

 どこかで少し紹介した柴田宵曲さんが書いています。「月並といふ言葉は月々催されるという意味で昔からあつた。それに新たな解釈を下し、俳句その他の批評に用ゐたのは正岡子規である。子規は当時の既成俳人、すなはち旧派の俳句仲間を指して月並連と云ひ、その作る俳句を月並俳句と称した。これが最初で次第に文学以外にも応用されるやうになつたのである。(中略)/ 由来月並なるものは諸事停滞の辺に生ずる。停滞は腐敗堕落の前提である。子規の書いた「ホトトギス第四巻第一号のはじめに」といふ文章の中に、

 我々は斃れて後に已むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都会に住んで 居ると、自然と腐敗して来る事は世の中に実例が多い、万一我々が都会の腐敗を一掃する前に軟化して勇気が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舎者が出て 来て必ず我々の志を継いでくれるであらうという事を信ずる。といふ言葉がある。この腐敗はすなはち月並化を意味するので…。(以下略)(柴田宵曲『明治風物詩』ちくま学芸文庫。2007年)(左の写真は漱石が松山中赴任中に下宿していた「愚陀仏庵」)

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 かなり以前に愛媛の地を訪ねたことがあります。どこを見たいというのではなく、彷徨するばかりの旅にもならない時間を過ごしました。これはどこに行っても同じで、その土地に足を印したというだけでぼくは満ち足りてきます。松山には相当に若い後輩(女性)がどこかの学校で教師をしていますし、ある放送局に勤務している人もいました。たったそれだけで、その土地が身近に感じられてくるのですから、単純なものですね。

 ぼくは若いころから子規がことのほか好きでした。漱石とは比べ物にならないくらいです。その理由は分かりませんが、きっと彼が若くして死んだことと関係があるのかもしれません。(漱石だって亡くなったのは五十歳。決して長生きではなかった)子規がロンドンで苦しんでいた漱石を励まし、英国から病床にある子規に声涙下る便りを書いたのは漱石でした。この二人の交わりを見て、「明治」という時代や国家が何と若かったのかと驚嘆したことを今でもはっきりと覚えているのです。「刎頚の交わり*」というのかしら。(*《「史記藺相如伝から》その友のためなら、たとえ首を切られても悔いないくらいの親しい交際。デジタル大辞泉)

 「明治は遠くなりにけり」と虚子に連なる中村草田男さんは詠じましたが、遠くにかすむが如くに、若い子規たちの笑い声が聞こえてきそうです。知りもしないのに、なつかしいなあ、という感情が溢れます。そして、その青年たちの横にはきっと、母の八重さんと妹の律さんが座っているのです。この地(東京や愛媛)では、「男社会」が頑として成り立っていたんですね。こんな場面がいつまでも消えないで残っているのが不思議なくらいです。

 ロンドンの漱石にあてた「子規の手紙」一通。(この手紙の翌年(明治三十五)年九月に子規は亡くなる、漱石の帰国はさらに次の年(明治三十六年)一月末のこと)

「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廢止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 畫ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ燒芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ擧ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
 錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
 僕ハ迚モ君ニ再會スルコトハ出來ヌト思フ。萬一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
                                         東京 子 規 拜
     倫敦ニテ
   漱 石  兄

 この手紙を受け取った漱石は、ロンドンの街中で「死の練習」をしていた。重度のノイローゼに罹患し、生きた心地がしなかった時期でした。ある本によると、この頃、文部省は人を介して「漱石の帰国」を求めたらしい。このままでは「危ないから」と。漱石は国費留学を命ぜられていたのでした。後年、文部省から「文学博士」の学位を示されて、彼は頑なに辞退したこともあります。「則天去私」だか「私の個人主義」というものがそうさせたのでしょね。

 ともかく、苦しみの只中にあった漱石を救ったのは二人の同期留学生、早矢仕有的と池田菊苗でした。早矢仕は大変な実業家であり、「新生島国」の医師、実業家、銀行家でもあり、なんと「丸善」を起こし、「ハヤシライス」まで生んだ人。一方の池田は化学者でグルタミン酸という「うまみ成分」を見つけ、それを「味の素」と命名、のちの会社化につなげた人。ハヤシライスと味の素の生みの両親に漱石は助けられ、かつ病床の子規に励まされて、やがて帰朝後、早くも「文豪」になったのでした。それを大いに助けたのが虚子だった。いや、じつに明治は遠くなった、ホントに。(この辺の「青春の群像」も書きたいですね)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。