わたしが親切をしてやったのが羨ましいのか

 柄にも似合わず、ぼくは若いころは「聖書」をかなり読んでいました。別に信者になろうという気もなかったけれど、友人の中には熱心なキリスト者も何人かいましたので、世間の交わりの都合で読んだという程度でした。ぼくの愛読書の一冊だった。ある時、都内神田にある古い教会の神父さんに誘われて、「信者になりませんか」と言われた。試験を受けると聞いて、お断りしました。「地獄の沙汰も金次第」の向こうを張った、「天国の沙汰も偏差値」かというわけです。(信者になる気は全くなかった。神父さんは教会音楽の権威だと伺っていました)「教会の外に救いなし」というテーゼには我慢できませんでしたね。

 そんなこともありましたが、読むでもなく読んできたのが「聖書」でした。今回はその流れで、とても有名な件(「譬え」)を紹介して、「自主トレ」の手助けにしたいと考えた次第です。

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 「天の国は、家の主人が夜の引明けに出て行って、葡萄畑に労働者を雇うのに似ているからである。一日一デナリの約束で、労働者たちを葡萄畑にやった。また九時ごろ出て行って、ほかの労働者が何もせずに市場に立っているのを見て、「あなた達も葡萄畑に行きなさい。やるものだけはやるから」と言うと、その人たちも行った。十二時ごろと三時ごろにまた出て行って、同じようにした。五時ごろに出て行って見ると、ほかの労働者が立っていたので、言う、「なぜ一日中何もせず、ここに立っているのか。」彼らがこたえる、「だれも雇ってくれないのです。」彼らに言う、「あなた達も葡萄畑に行きなさい。」

 さて夕方になると、葡萄畑の主人が監督に言う、「労働者たちを呼んで賃金を払ってやりなさい。最後の者からはじめて最初の者まで。」そこで五時ごろの者が来て、一デナリずつ貰った。最初の者は来て、自分たちは余計に貰えるものと思っていたところ、彼らも一デナリずつ貰った。そこで貰ったとき、家の主人に向かって不平を言った。「この最後の者は一時間しか働かなかった。われわれは一日中、重労働と暑さを辛抱したのに、あなたは同じ扱いをされたではないか。」主人がその一人に答えた。

 「君、わたしは何も間違ったことをあなたにした覚えはない。一デナリの約束ではなかったのか。自分の分を取って帰りたまえ。わたしはこの最後の人に、あなたと同じだけやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしが親切をしてやったのが羨ましいのか」(マタイ福音書二〇章1―15節)

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 わが身を葡萄畑の何人もの労働者になぞらえてみます。それぞれの立場に立たされたとき、自分はどのように判断することができるか。自分とはちがう立場の人について、どんな感情をもとうとするのか。あるいはもてるのか。そのようなときにこそ、自分という人間がどの程度のものなのかが明らかになるんじゃないですか。

 この葡萄畑の「譬え話」は、人生は計算(経済)だけで生きられないし、他者との競争で勝ち負けを争うものじゃないということをぼくたちに考えさせてくれませんか。まるで自分をたしかめるための練習問題のようでもあります。

 もしあなたが「最初の者」であったら、いったいどのような感情をもったでしょうか。葡萄畑の主人の話をそのまま受けとめることができましたか。それとも、「最初の者」とおなじように不平を並べたでしょうか。葡萄畑の主人はなぜこのようなふるまいをし、どうしてまた、「最初の者」にあのようなことばをなげつけたのですか。そこにどんな意味があるのか。ここに「パリサイ人と税金取り」の譬えを思いだしてもいいでしょう。

 この話には「最初の者」「最後の者」その「中間の者」というように、労働者はたくさんいました。自身がそのうちのだれかであったとしたら、あなたはどう思ったことでしょう。あなたが葡萄畑の主人であったなら、どのようにしたでしょうか。まるで「謎」のような話だといえませんか。このような出来事をまえにして、いったい「わたし」はどのように考えるのか。それが問われているのだと思うのです。

 「たくさん働いたから、たくさんの報酬をもらうのは当然だ」「少ししか働かないものと同じようにあつかうのは不公平ではないか」労働は報酬によって評価されるのだ、と。まるで現代社会の金をめぐる構図を見るようです。

 「心の貧しいものは幸いです。天の国はその人のものもだからです」と「マタイ5章1~3」にあります。「心の貧しいもの」とはだれのことか。それは自身が罪深い、取るに足らない人間、人をうらやみねたむような、そんなみにくい人間、つまりそのような弱い存在だということを自己に隠さない人をいうのでしょう。そのように「心の貧しい者」は幸いだと聖書では述べられている。幸いであるというのは、神の祝福を受けるという意味でしょう、教会では。

 ここに、親鸞さんの「悪人正機」という思想を置いてみる。自分でなんでもできる人もまた、幸いである。しかしそんな人がどこにいるのか。多分、善人という存在は人類史の中でいったい何人いたかというくらい稀有にも稀有の人、あっさり、そんなんおるかい、と言った方がわかりやすい。仏に列する存在ですね。悪人とは「自分」です。衆生はすべからく悪人、往生の条件は「悪人」であることだと、親鸞は言うのです。

 自己の人生を切り開ける人は幸いだといえるでしょうか。他者との競争に勝つ人は「心の豊かな人」だといえるか。わたしたちが本当に強くなれるのは「自らの弱さ」を自分に偽らない人、弱さを自覚するからこそ、その程度において強い人になれるのではないでしょうか。世の中で強いと思われている人ほど、弱いものだという例がいくらでもありませんか。人間の分際、そんなことを長い間にわたって、飽きもせずに愚行してきました。 

悪人正機説・あくにんしょうきせつ=浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の根本思想。《歎異鈔(たんにしょう)》に〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉とある。善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対他力の思想につながる。(マイペディア)

 労働というものが、「金の単位」でしか計られないというのはどんなことか。ネット上でどなたかが言ってました「今だけ、金だけ、自分だけ」だって。それとは逆の人生にこそ、救済とか信仰の問題があるのだと思われます。働けることが幸いだという「労働」もあるし、「金にはなるが人にふさわしい「労働」ではない」というものもあります。この「譬え」はどんなことを言いたいのですか。教会並みの理解ではなく、娑婆でしか生きていない、たった一人の寄る辺ない人間の「分際」で考えてみたいですね。(つづくかも)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。