学校は平和に生きるための Sabbath(安息所)だ

【10月17日 AFP】イエメン第3の都市タイズ(Taez)で、新学期初日の授業に出席する児童ら。校舎は、2年前の空爆で破壊されたままとなっている。(c)AFP(https://www.afpbb.com/articles/-/3308773?pid=22717986)

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 今ではすっかり山中の住人になりましたが、まだ都心に通勤していたころは、時間を見つけてはいろいろな場所に出入りしていました。大石芳野さんのお仕事もそんな中で知るようになり、何度も会場に足を運びました。そのたびに、戦禍の子どもたちが気になり続けていました。子どもたちは、しかし戦争に引き込まれているふうにはまったく見えなかった。表情の険しさと悲しみの色は消えていないが、その心中深くには「平和の心」がはっきりと存在しているのを感じることができました。あくまでもぼくの感じたことです。

 「戦争と平和」などと人は何げなく言いますが、戦争は平和を壊すものであることは確かだとして、平和は戦争と対峙しているものかどうか、ぼくはいつもそのことを考えてきました。「一億火の玉」「一億一心」などと煽り立て、人民を戦争一色に染め上げていても、煽動者は夜は暖かい布団で「へいわな」眠りに入る。戦争の構図は、いつでもどこでも、戦争を起こす人間たちとその犠牲になる人々に、敵であれ味方であれ、分断される、だれもこの文壇にはに抵抗はできないのです。どんなに激しい爆撃にあっても身近な人が犠牲になろうと、次の朝は必ず来るし、人にであえば、「おはよう」とあいさつを交わす。戦時であっても、日常はなくならない、なくしてはいけないと思う。それを表現しているのは最初の写真です。賢くなるための努力は戦時においても続けなければならない。学ぶ場所が破壊されても、学ぶことはできる。束の間であれ、がっこうはそのための「安息の場」です。そうあってほしい。 

 ぼくは敗戦後の子どもだったし、「青空教室」を経験しました。しかし、この写真の校舎(とは言えない)で危険にさらされながら、子どもたちは学ぼうとしている。これが「平和」でなくて何だろうと、ぼくはいいたいのです。平時と戦時と言いますし、戦争と平和とも言います。でもそれは対立しているものなのかどうか。誤解を恐れないでいうと、平和の中に戦争があり、戦争の中にも平和なものがあるのです。すべてが平和でもなければ、全体が戦争に覆われてしまうのでもないといいたいのです。戦争か平和かというのは、どうですか。戦時一色、平時一色なんてありません。

 戦時に置かれた子どもたちの表情を見ていて、ぼくはいつもそう感じてきました。いまは「NGOの時代」です。善意の真似事にもなりませんが、ぼくもささやかな一灯を内外にともそうとしてきましたし、これからも可能な限りでそうしたい。子どもは、ぼくたちの未来でもあり、また過去でもあるのです。

 子どもの顔を曇らせると罰が当たる。それにしても、平時であるにもかかわらず、どうしてこの島(だけではないでしょうが)の大人は子どもたちを虐待・脅迫するのでしょうか。「お父さん、お母さん、なんで子どもをそんなに脅すんですか」「先生、子どもを大切にするというのはどういうことなんですか」

 破壊されきった校舎の中で、子どもたちはどんな言葉を交わし、何を学ぼうとしているのでしょうか。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)