Sexual orientation is a key part of a person’s identity

発言は侮辱的で間違ったものだ。SNSに批判が投稿される(承前)

この発言に対し、ソーシャルメディアにはバレット氏の「性的嗜好」という言葉が、侮辱的で間違っているという指摘が次々と投稿された。/ MSNBCの番組「ザ・ラスト・ワード」シニアプロデューサーのカイル・グリフィン氏は、「バレット氏が使った“性的嗜好”という言葉は、侮辱的で時代遅れな言葉です。この言葉はセクシュアリティが選択できるものであるかのような意味を持っています。それは間違っています」とツイートした。/ ニューヨーク市のリッチー・トーレス市議会議員も、セクシュアリティに対するバレット氏の考え方は「過去の遺物」だと述べ、次のような批判を投稿した。/「ゲイ男性の私には“性的嗜好”はありません。“人種の好み”や”民族の好み”がないのと同じように。私にあるのはセクシュアルアイデンティティーです」

公聴会でも、民主党のメイジー・ヒロノ議員が、バレット氏の「性的嗜好」という言葉は間違っており、侮辱的だとバレット氏本人に伝えた。ヒロノ氏はこう述べている。

Sen. Mazie Hirono (D-Hawaii)

「性的嗜好は、侮辱的で時代遅れの言葉です。この言葉は反LGBTQの活動家らによって使われ、性的指向は選べるものという考えを示唆していますが、間違いです。性的指向は、人間のアイデンティティーの重要な一部なのです」/(“Sexual preference is an offensive and outdated term,” Hirono said. “It is used by anti-LGBTQ activists to suggest that sexual orientation is a choice. It is not. Sexual orientation is a key part of a person’s identity.”)

間違いを指摘されたバレット氏は「私は決してこの言葉をLGBTQコミュニティの人たちを、侮辱しようとして使ったわけではありません。もし私の言葉が侮辱であったのであれば、心からお詫びします」と謝罪した。(“I certainly didn’t mean ― and would never mean ― to use a term that would cause any offense in the LGBTQ community,” Barrett said. “So if I did, I greatly apologize for that.”)(以下略)(同前記事)

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 「性的嗜好」と「性的指向」、この二つの言葉は(日本語の)発音は同じでも、内容(意味)は全く異なる。この二つの語を混同するのかあるいはわざと誤用する、おそらくはそのような間違い(語を使う側の意識の「あるなし」が重要です)がほとんどですが、じゅうぶんに理解していないから間違えるというのと、わかっていて「誤用する」のは明らかに次元は違います。知らなかったから「性的嗜好」という言葉を使ってしまった、指摘されて自分の間違いが分かった、それだけをいえばいいのに、「性的嗜好」はいかにも「好き嫌い」を意味しているから、人それぞれの好みを、私は認めているといって、自分の犯した誤り(差別的侮辱)を認めようとはしない。これはLBGTQ問題にかぎらず、「差別の場面」で多くの「(差別をしているという)「確信」者」が犯す言葉の便宜的な使い分けです。自己の根底にある「差別感情・意識」を表面的な「言葉の使い方」問題にすり替えるという詐術なんです、でも差別感情は生き残る、生き残す。 

 バレットさんは「相手を侮辱しようとして使ったのではない。侮辱したのなら誤る」という。このような態度というか偽謝罪(謝罪のふり)の場面を、ぼくたちは何度も見せつけられてきました。この島で話題にされている「学術会議会員任命拒否」問題でも、きっとこの「一見謝罪風偽装」「言葉が足らなかった、だから謝る」(と言って、頭を下げたまま「舌を出す」)という景色がまもなく見られるはずです。(絶対に自らの「誤り」を認めない。それを認めたら、自分が壊れるほどに、差別意識が充満しているんだ)(「使った言葉は取り消す。しかし言葉の底にある「差別感情」はかえって増幅させるのがたいてい、恥をかかされたというのだろうか)

 「嘘も方便」という。これはなかなかの言い草(表現)で、まるで嘘が生きて存在することを認めている風でもあるのです。方便とは「たずき」「たつき」「たどき」ともいって、手段や方法、さらには 生活の手段=生計を意味します。政治家の多くにとって嘘というのは「生活の手段」だというのです。ここまでくれば、なんともすごいね。 あたらしいPMはのっけから「嘘も方便」をさらけ出しました。恥知らずであり、礼儀知らずですが、それは政治家の常だということなら、ぼくには注釈の余地はありません。「嘘」が始まったからには、周りがとりつくろわねばならない。というので、嘘の上塗りです。この「嘘」から「誠」は絶対に出ない。情けないけど、「自分は偉い」「他人より優れている」と思い込みたい奴ほど、「嘘にハマる」それで乗り切れたと錯覚したから「嘘のおかげ」を信じているのです。つまり「嘘も方便」となります。可哀そうだね。

  “So if I did, I greatly apologize for that.”「この言葉が侮辱に当たるのなら、それについては誤る」というのですが、それ以上のことは言わない。言っていない。ある言葉を使って、当事者を傷つけたり侮辱したのであれば、今後、この問題についてはこういう姿勢や態度をとるので赦してほしい、このように言う人はまずいません。「言葉」は取り消す、だから「侮辱」は消えるという具合にはいかないのですが、それで追及も謝罪も止まってしまうのです。残されるのは「虚しさ」と「後味の悪さ」だけ。今回(バレット氏)もそうでしょう。間違いは間違いだ、とどうして認められないのか、自分が減るんですか。じぶんの「自尊心」が傷つくというのなら、「あなたの言葉で傷つけられた人がある」とどうして気が付かないか。と言ってもダメなんだ。つける薬がないなあ。副作用のない「新薬」開発を急ぐか。

 apologizeというのは「お詫びする」のでしょうが、それは「弁解する」という意味でも使われます。誤ったんだから、もういいじゃないか、そんなつもりじゃなかった、真意はこうだとか何とか。弁明とも。また「謝罪」というのも軽い言葉になりました。「罪の自覚」があって、初めて「謝る」が生まれるのでしょうに。頭を下げるのが「謝罪」だと錯覚しているんですな。

 島社会では常に、「謝罪会見」のオンパレードですが、誰に対して何を「謝罪している」んですか、ぼくにはさっぱりわからない。何度か、会見の真似事をさせられましたが、「ぼくがやったんじゃない」とかならず「前置き」を入れました。評判は悪かったけど。このテーマについては円地文子さんの『食卓のない家』を読まれますように。我が子(成人)が大きな過ちを犯した。世間からの糾弾を家長は受けるが、間違い(過ち)を起こしたのは子どもだ、自分ではないと、親の自分は弁解も謝罪もしない。そんな親を社会はまず許さない。「この親にしてこの子あり」とか何とかいって、いちゃもんしかつけない、非難の矢を放ち続ける。

 「自他の区別」「自分と会社」「自分と学校」、その区別がついていない人が多いですね。「うちの会社」「ぼくの学校」「私の国」などなど、私やぼくは「塊」の一部なんかじゃない、という自覚が皆無です。反対に、集団と自分が合体しているのです。いまだにこんな物言いに出会うと、ぼくは卒倒はしませんが、驚きあきれます。「これは、お前の国かよ」「これはお前の学校かい?」とね。

 ぼくもこのような場面(謝罪の儀式)に何度も立ち会ってきました。「差別糾弾」「謝罪要求集会」というのでしょうか。「踏んでいる足をのけてください」「あらごめんなさい」これでことは済んでしまいます。何はなくとも、まず「偽謝罪」が肝心だというわけです。踏まれた足は「差別を受けた」ということだし、「あらごめんなさい」は「差別をやめる、謝る」と取れますが、踏まれた側の足の痛さは忘れられないのに対して、踏んだ方は「すっかり忘れて」しまう。また踏むかもしれないけれど、踏んだ後から忘れる。偏見や差別がくりかえされるのはこういった背景(事情)があるからでしょう。差別する側に「反省や謝罪」「(差別しない)学習や行動」を要求しても、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」か「羹(あつもの)に懲りて、鱠(なます)を吹く」かのどちらかに終わってしまうのです。「謝罪」で終わるのではなく、そこから始まるのですが。

 なぜそうなるのか。それは「偏見や差別」はたった一人の問題であると同時に、その「一人」が生きている「社会」(世間や時代)の問題でもあるからです。「自分は差別するつもりはなかった」「ほかの人もやっていることを自分はしただけだ」というような「弁解・弁明する(apologize)」がどこでも見られます。それで、自らの「差別感情」「差別行為」を消そうとします。「社会」ぜんたいが差別しているのに、それを理解しないで、これは常識や通念であって、差別なんかではないと勝手に思い込んでいる、強弁しているだけです。さらに追及すると「開き直る」のですよ。「男社会」がかくも長く続いた結果、女性に向けられた偏見や差別がひどいものであっても、あるいは男・女ともにそれを「差別・抑圧」などとは自覚も意識もできなったに違いない。これは今に続く大きく深刻な課題です。

 「男女雇用」(「女男」「女男平等」という並びじゃないですね。辞書も「時代おくれ」ですね)の機会均等などと、今頃いうかと思われますが、この段階を踏まなければ次のステップには進めないのです。前途を思えば気が遠くなりますが、バトンタッチを確実にしなければならない。「日暮れて途遠し」バトンを隠すことも落とすこともなく、丁寧に次の走者に渡すこと。(「女は平気でウソをつく」という女性は何なんでしょう、男ではないし、女性なんですか。あるいは、…。「女の敵は女」ということはあり得ます。男の敵は…)(この項、まだ続くと思います)(蛇足 「謝罪」は男の専売ですか?)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。