繁栄は誇るべきではなく、むしろ罪悪だ

 《 資本主義日本は繁栄し、豊かであると日本人は胸を張って世界を闊歩している。しかしこのような資本主義体制や、いわゆる自由世界を、単純に謳歌してよいものかという、新しい問題がある。(中略)  

 ところで、先進資本主義国の高度成長によって、一見豊かに見える市民生活は、他面、資本主義は高度成長しなければ崩壊する、という楯の反面をもっている。/ 私が日本の高度成長期に主張したとおり、高度成長は、資本主義のある段階における暴走現象である。すなわち、それは恐慌の新しい形であるから、制御できない性格をもつ。喜んでばかりはいられないのである。

 ところで、そのような生産は地球の上で行われているから、当然、地球的な制限を受ける。/ 約二十年前に、ローマ・クラブは、地球資源の観点から「成長の限界」を論じた。しかしそのころから私は、経済の成長は資源問題よりもむしろ、さまざまな地球規模の公害を生むという、人類の生存にかかわる限界があることを指摘していた。》(武谷三男「経済成長という矛盾」『環境と社会体制』所収。技術と人間刊、98年)

 武谷さんは物理学者でした。『武谷三男著作集』(全六巻)『武谷三男現代論集』(全七巻)など多数の著作を残され、2000年に亡くなられました(1911年生まれ)。技術論や国の行ってきた原子力政策について多くの発言を費やし、批判的な立場を貫いた人でした。引用した文章が書かれたのは八九年九月です。まさに「高度経済成長」のあからさまな矛盾が噴出していた時期に重なります《Japan as NO !》と、他国から煽てられて、国を挙げて浮足立っていた直後、儚い迷夢から寝耳に水で、一瞬のうちに崖から突き落とされた時期でもあります。(ぼくが大学に入ったのが64年、いたるところが「普請中」だった。川も海も埋め立て、山を削り、と勝手放題に地球に牙をむいて、ひたすら邁進していた「高度経済成長期」に遭遇したのです。「政治の時代」から「経済の時代」への移行といわれていました。凄いところに来てしまったな、と「僕は泣いちっち」の気分だった)

 ひたすら物が満ちあふれる生活が豊かだと錯覚する時代がつづきました。気がつけば、処理しきれない不要品でぼくたちは圧死寸前の状態に陥っていたしし、その影響をいまだに引きずっているのです。年間に自動車を何百万台も生産する工業力を誇ったが、それはいかなる観点からの経済主義だったのか。今になれば、それもまた悪夢のようでした。(少し脱線、というか、今までも脱線していたんだから、大いに脱線というべきですね。今春、長年住んでいた家屋を売却しました。築三十五年、不動産屋は取り壊して更地で売却しませんかと、意外なこと言いました。古屋部分はゼロ査定。奈良の法隆寺は木造で千三百年だ、この家だって百年は悠々と住めるさ、とぼくは譲らなかった。古家を手直ししてでも住んでくれる人にこそ売りたい、と。しばらくして若い夫婦が見学に来たので、ぼくは「うんと値引き」して売った。不動産屋いわく「売値を売主が値引くなんて、長い仕事の中でも初めてです」といいました。それだけ、モノを大事にしようという精神さ。今乗っている車は、登録以来、十九年目です)

  《 隣国中国が、日本モデルを理想として成功したら、どうなるだろうか。それは、日本の十倍の地球汚染をもたらすことになり、ただちに地球はパンクする。/ このことから考えても、現在先進諸国の高度成長による繁栄を、地球上の十億以下の国民が約四十億の途上国の人々の犠牲において得られている、という結論になる。/ したがって、今日ただちに地球汚染の全許容規模を決めて、それを五十億で割り、各国の人数割に配分すべきだということになる。現在の日本の繁栄は、環境問題からいっても、発展途上国の圧倒的な人数の犠牲の上に成立っていることを、自覚すべきである。/ 先進資本主義国の繁栄は、決して単純に誇るべきことではなく、むしろ罪悪であること。人類は、生産物の豊かさとは異なる生活の豊かさを見出すべきことを知る必要がある。すなわち、先進資本主義国の生産力をいかに制御するかが、今日の課題なのである》(同上)

 《 今、ブームになっている新技術は、なんら人類の危機を救うものではないこと、むしろ危機を加速する可能性があることは…/ 本当に必要な技術とは、地球汚染を救う技術、地球を砂漠化から守る技術、廃棄物処理、汚染処理、公害処理の技術である。いや、というよりも、公害をできるだけ出さない技術、処理できる範囲でしか廃棄物を出さない技術、粗大ゴミをつくらない技術こそが、真に求められる技術なのである。/ こうなると、もはや科学技術の問題ではない。社会体制の問題である。くり返すが、全世界の戦争体制と利潤体制こそが、人類の危機を招いている元凶である。

 一見繁栄に見えていることが、じつは行きづまりなのである。経済成長しないでも、人びとが安心して生活していける体制、それをつくり上げねばならないときが来たのである。(「科学大予言」同上)

 今日の状況から見ると、いかにも当たり前の観察であると思われますが、これが書かれたのは83年でした。何の疑問ももたず、大量生産と大量消費がセットにされ、あげくに大量廃棄で完結しない体制を維持しながら、この30年も突っ走ってきたのです。腐るほど出る破棄物を処理する技術も哲学もないままで、ぼくたちは企業や政治のお先棒を担がされていたと気がついたときには、時はすでに遅し、だったということでしょう。「先進資本主義国の繁栄は、決して単純に誇るべきことではなく、むしろ罪悪であること」という指摘をぼくたちは真摯に受け止められるかどうか、受け止めたかどうか、それこそが、今現座に至っても問われています。「資本主義は高度成長しなければ崩壊する」のを事実として認めなければならない瀬戸際に立たされています。

 武谷さんの指摘から、すでに四十年近くが経過しました。その間に、自然災害(地震・豪雨、台風など)とそれに輪をかけたような、人災としての原発事故、その災厄の大きな傷跡、爪痕は、なお隠しようもなくこの島のあちこちに厳存しています。それらは物言わぬ物質ですが、人間よりもはるかに雄弁に事態の深刻度を物語っているのです。この歴史から何一つ学ばないどころか、歴史の事実すらも改竄したり消去しようとして、もの狂わしいいほどに躍起になっている権力亡者たちは血眼になって、次なる獲物を狙っている醜悪きわまりない惨状を、ぼくたちは毎日のように見せつけられています。go to hell!

 若いころに洞穴の中まで入ってしげしげと観察した、新潟は西蒲原郡の「賽の河原」、それをぼくは時として思い返す。一人の人間の、あるいは人間の集団の積年の働きも、結局は実を結ばないのではないか。なぜ、そんなことまでしなければいけないのかと、野原や藪中の猫や鳥の生きる様に引き込まれそうになります。目的がありそうでなさそうで、とにかく活発な蟻や蜂などの動きを見ていると、なおさら仲間に入りたくなる。もう蝉の声はほとんど聞こえなくなりました。夏の盛りにこそ、秋が忍び入って準備しているんですな。

 ●賽の河原= 死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の三途(さんず)の川の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという。 むだな努力のたとえ。(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです