
ベルギーでトランスジェンダーの副首相誕生 国内では誰も騒がない、素晴らしい理由とは
2018年暮れから650日余りを費やし、欧州の小国ベルギーにようやく正式政府が樹立した。その陣営は日本のそれとは相当違う。男女半々、若手が多数。イラク難民の2世はいるわ、トランスジェンダー女性はいるわと、多様性を絵に描いたような顔ぶれだ。外国メディアでは「トランスジェンダー女性入閣」などと騒がれ、世界の性的マイノリティーには強いエールを送った。だが、当のベルギーでは話題にも上らない。海外とベルギーとで何が違うのだろうか。(ジャーナリスト=佐々木田鶴) ▽欧州初のトランスジェンダー大臣 今回ようやく成立したのは7党連立政府。そもそもベルギーでは、国を二分するゲルマン系民族とラテン系民族が「社会のあり方」に期待するものは極端に違う。公用語が三つもあり、有史以来、ありとあらゆる移民や外国人がやってきてできた社会だ。 他人と異なることが当たり前の社会では、支持する政党がばらけるのは無理もなく、二大政党どころか、政権の中核を担える明確な多数派政党すらない。だから、総選挙の後には連立を組む相手と折り合いをつけるのに、毎回気の遠くなるような時間がかかる。10~11年にも541日を要した。今回はさらにそれを越えた。でも、新政権ができるまでは、前政府と前首相が決められていることだけを粛々とこなす決まりがあるから、カオスには陥らない。突然のコロナ危機では、特命を与えられた臨時首相がなんとか対応してきていた。 それにしても、今回の組閣は見事なまでの多様性を具現した。多様な人種や民族的背景を持った人が混じっていることは、外見や名前から誰もがすぐに気づいた。ところが「ペトラが入閣して私はすごくうれしい!」と、ある外国人記者に率直な喜びを伝えると、「この方、そんなに有名なんですか?」と返された。(2020/10/9 07:00 (JST)©株式会社全国新聞ネット)


ペトラ・デゥスッテル。彼女は筆者の中では、ベルギーを代表するヒロインだ。婦人科医で、ゲント大学医学部で生殖医療を牽引する教授でもある。14年、緑の党から立候補してベルギー連邦議会上院議員になり、欧州評議会でベルギーを代表。19年6月の選挙で活躍の場を欧州連合の議会に移した。そして、自らがトランスジェンダー当事者(男性から女性)であることを隠さない。 ベルギーおよび欧州の政治の場で、行政手続きや制度の改革、公衆衛生と持続可能な開発などを担当し、医療や医療倫理における深い知見から、代理母出産における子どもの人権、ヒトにおける生殖技術使用、製薬業界の臨床研究の独立性などを任されてきた。同時に、LGBTQの人権やがん撲滅などでも広く活躍する。客観的で科学的な取り組みは高く評価され、どのようなテーマであっても、人権と公共の健康や衛生という観点から軸足がぶれることはなかった。 そんな彼女が今、欧州初のトランスジェンダー女性として、副首相兼大臣(官公庁・公共機関担当)に任命されたのだ。(同上)
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「他人と異なることが当たり前の社会」「(多様な考えが存在するから)連立を組む相手と折り合いをつけるのに、毎回気の遠くなるような時間がかかる」と記事にあるように、物事を丁寧に決定するには時間がかかる、民主主義には「時間というコスト」は軽減も無視もできないということでしょう。このことから、「満場一致」がどんなに杜撰で、(ぼくに言わせれば)暴力的であるとさえいえるのです。他人の意見を尊重する、物事の重要性については時間をかけて明らかにする、でも一定の「取り決め(修正可能)」は守る。それがなければ、「カオス」に陥るだけだからです。
十人十色( So many men, so many minds.)というのは、集団生活が開始された早い段階から、十分に集団の成員に受け入れられていた生活態度だったように、ぼくには思われるのです。根拠みたいなものはあるともないとも断言はできませんが、もし一色に塗りつぶされてしまったなら、その人間集団は永続できなかったに違いない。したがって、この集団生活観が今頃になってとかく言われているのも、それだけ「十人一色」「一億一心」「億兆心を一に」という本来の性質をゆがめる強制力が働いていた時代ががあったからではないでしょうか。個性などという言葉が使われていなかったころにも、個性というのもはあったし、個性尊重という意識が注目される以前に、すでに各人を大事にする態度はあったに違いない。稲の品種の多様を確保することは、イネそのものにとっても死活問題だったし、それを食料にしていた人間集団にとっても死命を制せられるほどの重大事であったのです。違いがあることから、それを認めるところから、新たなものが生まれます。」

民主主義というのは、「差し当たっての決定」を得るプロセスであり、その繰り返しです。ある詩人は「地平線に向かって歩くようなもの」、それがデモクラシーだといったことがあります。じっくりと時間をかけて、参加者が納得して決める、でもまちいに気付いたら、また、時間をかけて丁寧に方向を求める。正しさは「方向に」あるのではないですか。今度は、こっちの方に行こうではありませんか。まちがっていたら、出発点に戻る。急ぐことはない。
「多様な人種や民族的背景を持った人が混じっている」「(それでいて)男女半々」のベルギー新内閣の出発。そこへ行くと、この島の組閣は、まるで自動運転のようで、あるいはコンビニの「お弁当」のように、手間も暇もかからず(金だけはびっくりするくらいかかっているはず)、じつにすんなりと出発進行。(ただ今、エンスト気味ですが)「仏壇のお供え」のように女性二人(失礼します。「紅二点」というのか。これが「美しい国」の美学かよ、と大向こうからの音声あり。

どちらが「いいとか悪いとか」言うのではありません。(言わなくても、分かりますか、ぼくのいいたいことが)これは「(文化という名の)道」なのですから、自分たちの脚で歩かなければ、その後に「文化の道」はできないのです。ベルギーから「道を輸入する」わけにはいかない。泥濘(ぬかるみ)も埃(ほこり)も、自分たちの心身と知恵を駆使して、時間をかけて掃除する必要があるというのでしょう。この東海(倒壊)の島社会は、アッと気づく間もなく、文化も民度も政治力も経済規模も、もっとも情けないのは人心ですが、それらがまるで雪崩(なだれ)現象を起こしているように、とめどもなく滑り落ちていく。まだ落ちている。堕ちていく、堕ちている。その原因は、「満場一致」「全会一致」(unanimities)の礼賛あるいは狂信、「異質」(heterogeneity)の極度の嫌悪と排除、こんな慣習や習慣(旧習・悪習に泥みすぎています)から抜け出せないからだと、ぼくは考えているのです。
「LGBT」、なんでそれが話題になるの?、どこに問題があるんですか、と言ってみたいねえ。日暮れて、道遠し。どんなに暗い夜が長くても、朝はきっとやってきます。だからさ、歩かなきゃ。ぼくも歩く、君も歩こう。「歩く」は「考える」だ。「時代おくれ」にも多面性がありますね。「おくれている」という意識や自覚が働くには「外圧」が必要なんですね。それがなければ、「鎖国状態」は延々と続きます。「鎖国」は「時代おくれ」なのではなく、「時代の外」に出ることなんでよ。「世界と日本」というとらえ方は今でもあるでしょう。「日本は世界と戦争をした」などと言っていたくらいです。どうして「日本は世界に入っていないんですか」という疑問がぼくにはあります。先ずはこのあたりから、克服するのがいい。その次は「時代おくれ」を乗り越えるですね。さらにその先があります。長い長い道ですが、目指す方向は見えていますから。けっして誰かの後ろ姿を追っかけるのではない。「坂の上の雲」とはなんだったのか。

(左の写真は、「世界に先駆けて、新型コロナウイルスの感染拡大を初期段階で封じ込めた台湾。その陰には、1人の「天才」がいた。IT担当大臣を務めるオードリー・タン氏(39才)だ。身上書の性別欄に「無」と書いたことでも知られる。」(2020.06.13 07:00 「女性セブン」)
(紅一点=《王安石「詠柘榴」の「万緑叢中 (そうちゅう) 紅一点」から。一面の緑の中に一輪の紅色の花が咲いている意》1 多くのものの中で、ただ一つ異彩を放つもの。「殊に目に立つ―は金釦鈕 (きんボタン) の制服」〈魯庵・社会百面相〉2 多くの男性の中にただ一人いる女性。」(デジタル大辞泉)
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