



歴史はくりかえす、しばしばこのように言われてきました。でも歴史のなかでは、二度と同じことは起こりません、そのことを、ぼくは身を以て感じてきたのも事実です。くりかえしたらいいなあ、という思いもあるし、二度と御免だという悔しさの念も強い。いったい「歴史はくりかえす」というのは何を意味するのか。
人生がかけがえのないことを、ぼくたちは皮膚感覚で実感している。命・生命・いのち(life)は大事なものだという意味です。したがって、「二度あることは三度ある」、あるいは「三度目の正直」などといいながら、この摩訶不思議な「人生」の寄る辺なさ(helpless)を(悲喜こもごもの期待や不安の入り混じる複雑な思いを込めて)言い表そうとしてきたのです。ぼくがここでいいたいのは、ほかでもありません。「もと来た道」をぼくらは歩いているのかという、愚問とも何とも言いようのない疑問です。そんなことはあるはずがないからです。もと来た道を歩けないのは、どの人にも共通しています。もちろん、比喩でしょう。今でもそのようにいう人は少なくないし、もっと若いころには、「昭和初期に似ている」「戦前のようだ」「昔とそっくり」と年上の人から嫌になるほど(耳にタコ)聞かされてきました。「いつか来た道」と。
ぼくは、昭和二十年八月以降は、いつまも「戦前」だと認識して生きてきました。戦前が終わるのはいつか。

先輩たちの叫びや心配に対して、そんなことあるか、ほんとかよ、という気分にぼくは襲われたものです。そんなことがあるわけないでしょ、と。「死んだ人は還らない」「失った命は再生しません」いかんにも昔のようだと感じたり見えたりすることはいくらでもあります。「二重写し」(オーヴァーラップ)現象です。いま、アメリカのT大統領を見ていると、本気でこの人は「狂っている」といいたくなるし、(狂気の周りには小心翼々とした「エリート」などと言われる人々が取り巻いて、「狂気」の振舞いを虎視眈々と、という眼差しで凝視している)「狂ったヒーロー」、それをまた熱「狂」的に支持する大勢の人々がいます。マスコミも隊列を組んでいます。そうです、はっきりとした応援団です。「異議なし!大統領!」ファシズム、そんな言葉が悪夢のように浮かび出ているのです。
この島はどうか。とてつもなくでたらめな権力行使を、長期間にわたり恣(ほしいまま)に、人民を愚弄してきた前内閣の二番煎じを飲まされているような強烈な悪寒を、今現在ぼくは禁じ得ないでいる。この二番煎じ内閣を下支えする「大衆の基盤」(Brigadeかも)があります。それを傍観するでも批判するでもなく、自ら権力側の隊列に入って歓呼しているマスコミがある。「権力と膝を交えるマスコミ」というのはブラックジョークにもならない、深刻な事態ですね。この島のマスコミの劣化が指摘されて久しいのですが、事情はアメリカも同じです。権力のやりたいこと、やろうとすることはいずこも同じでしょう。批判勢力を手なずける、飼いならす。仲間として取り入れる。すると、大半はしっぽを振るのを権力は知っているからです。提灯記事が満開です。このような状況は地上の各地で生じています。こちらの感染力も侮れない。

島の内閣は情報収集にかけては、最強かどうか知りませんが、相当なものです。「公安活動」のバリバリが目を凝らしているのですから。諜報機関化してから久しい。いたるところに「防犯という名の監視カメラ」が有形無形で設けられています。まるで隣国々の如しです。誰がどこで何をしたか、誰はどんな行動をしているか。あいつはどんなネット情報にアクセスしているか、政府に批判的な言動をするのはどいつか(ドイツ化)。まるで、戦前か(経験もないのに)と言いたくなります。それは「治安維持法」の時代です。もちろん、治安は「おのれ(権力)の治安」でしかありません。今回の学術会議委員の「任命除去」はまさにそうでしょう。権力の横暴だ、こんないい加減な法律を作るなと、いったい誰が言ったのか。ドイツが反対したのか。それを逐一調べているのですから。公安内閣、そのあからさまな結果です。(デジタル化は「情報の一元化」であるに決まっているのです)

歴史はくりかえさない。だれもが歩く道は、過去に生きた人たちの残した道をたどるしかないのですから、似ているようでも、確かに過去の人々の歩いた道とは違う。つまりは、歴史はくりかえさない。(歩いた道が歴史になる、まるで魯迅さんのようです)歩いているのは新しく歴史に登場してきた者たちですが、人間のサガは変わらない。同じようなことを考えたりしたくなる。権力者はもっとそうでしょう。あの時代の権力者と同等の力を振るいたい、もっと強い権力を、そう考えるならば、悪辣な先輩から学ぶのは当然でしょう。(憧れの先輩が)「悪辣であろうが、狂気を含んでいようが」意に介さない。もっと権力をと、デジタルです、無ハンコ化です、縦割り反対です、携帯料金値下げです…。と「美辞」でもないが、耳当たりのいい言葉を垂れ流す。庶民や人民が困ろうが、苦しもうが、委細構わず、権力の強化と永続化だけしか願わない、そのためには何でもする。コロナでさえ利用する。この島の各地の小権力連中の中にもそんなのがいるんじゃありませんか。クワバラ、クワバラ。

歴史はくりかえさない。しかし、くりかえしたいと思う人間がときには、同じような方法(戦略戦術)で人民を苦しめるのです。歴史いつでも未知です。一瞬に既知になりますが、それはいつでも無明です。灯りを、もっと灯りをと願うなら、過去に深く学んで賢くなるほかありません。携帯の料金は政府が決めるのか、これまた、隣国々に同じ。この島はどんな(政治体制)島なんですか。(野坂昭如さんは、それほど好きな人ではなかったが、彼の書いた『火垂るの墓』にはまいりました(左写真)。今ではこのアニメのことを思うだけで涙腺が壊れます、きっと。なぜでしょうか)
(中断します これから、かみさんを病院に連れていきます。ぼくは行きたくないけど、病巣を抉り出さないと。医者とやりあう場面があるかも。ぼくは医者も病院も薬会社も大嫌いです。そこへ乗り込んでいくんだ。気を確かに。いや、それほどでもないんです。歳をとることは防げないというだけの話。夫婦そろって、老人病です。帰宅してから再開します。それまでは、これをアップしておきます。お許しを。ただ今、7.30AM)(まことに大病院で(➡)、たくさんの「患者」が右往左往するほどの「蜜」でした)

(病院から帰還。14.00PM。九時前に家を出て、なんと五時間。病院までは車でニ十分ほど、生憎の雨降りだ。病院ではいろいろとありましたが、気が向いたら書きます。今月二十日過ぎに手術の予定。医者も病院も、製薬会社もうんと嫌いです。ぼくは依頼されて、三十年ほどある大学や病院の付属看護学校に出向いていた経験があり、たくさんの医者や看護師にも出会ってきました。特定の職業(人)に偏見を持ちませんが、医療はほんとに大きな問題を抱えていますね)(病院に恨みがあるのではないし、病院を非難するのでもありません。現代医療という「陰影」に対する抵抗感が、ぼくにはどうしても抜けないという話。コロナ禍にもその「陰影」が色濃く映し出されているのではないでしょうか。「患者本位」という符丁での医療ではなく、「人間中心」の医療を念願しています、と書いてきて、あれっ、こりゃ学校教育と同じじゃん、とオチがついたのか)
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