
梵語 ほんま暑おすなぁ、と猛暑をぼやいていたのがうそのようだ。きょうは野草に露が宿るという「寒露」。朝夕に吹く風はひんやりとし、程なく紅葉も始まる▼この時季、湖国の山あいを車で走ると、白いじゅうたんのように広がるソバ畑の光景に目を奪われる。かれんな白い花は雪にも例えられる。<蕎麦(そば)はまだ花でもてなす山路かな>と遠来の客を和ませた芭蕉の詩情に思いをはせる▼丹波や丹後などでも昨今、休耕田でのソバ栽培が盛んという。本紙地域版では「ソバの花真っ白」「白じゅうたん 秋風そより」といった記事が秋の深まりを告げている▼いま満開なのは、夏にまき、晩秋に実る秋そば。来月上旬に刈り取り、初冬にうま味が凝縮した「新そば」として出回る。地産地消で提供する地元のそば屋さんも多いと聞く。ひきたて、打ちたて、ゆでたての風味が待ち遠しい▼ソバは収穫までの日数が短く、年2回栽培できる。日照りや冷害にも強く、昔から凶作をしのぐ救荒作物として重宝されてきた。いわば危機を乗り越える食品ともいえる▼春先から続くコロナ禍は、いまだ収束を見通せない。政府挙げての「GoTo」の掛け声がにぎやかでも、もう少し我慢か。とはいえ近場で目でも舌でもそばを味わい、しばし自粛疲れを癒やすのはいかが。(京都新聞・2020/10/8 16:00)

このコラムの筆者は男性。京都人ではないような雰囲気が、とみているのはぼくです。だからどうというわけでもありませんし、近年の京都人もさまざまな雰囲気を持っておられますから、これが「京都人や」と図星は困難であるかもしれません。東に「俺っちは江戸っ子だ」とシタリ顔でいうお方もおられます。江戸っ子の定義(というのも変ですが、実は辞書にも載っているんです)は「江戸で生まれ江戸で育った人。また、現在では、父祖以来東京、特にその下町に住んでいる人についてもいう。いなせで、さっぱりとした気風や、歯切れがよく、銭遣いがきれいで、反面、浅慮で、けんかっぱやいところが特徴とされる。「三代江戸に住めば―」「ちゃきちゃきの―」(註 ホンマかいな)
江戸言葉。江戸弁。「わざと―を使った叔父は」〈漱石・明暗〉
[補説]「江戸っ子」の初見は、明和8年(1771)の「川柳評万句合」の「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」といわれ、それ以前は東男(あずまおとこ)または江戸者といった。江戸中期の繁栄期に、その語感が彼らの気質と誇りに合って普及した。」(ぼくが常用している「デジタル大辞泉」の解説です。他の辞書も大同小異。)

今では大都市となった東京も、家康入府以前は湿地帯でもあり、ほとんど住環境には適していなかった。武蔵の国への移植は秀吉の深慮の故でもありました。江戸の後期は百万都市としょうされ、世界最大の「都会」の決まり文句まで生まれた。今は、すっかり田舎人に占領されて、都会の面影も雲散霧消と言いたいんですが、そうじゃありませんね。江戸っ子に関して言うと、「いなせで、さっぱりとした気風や、歯切れがよく、銭遣いがきれいで、反面、浅慮で、けんかっぱやい」などという無形文化財(人間国宝)のようなお方はどこを探してもおられないという事態になりました。昔風に言えば、「よそ者に」島(縄張り)を取られた感が深い。
過日なくなられた守屋浩さんによって「僕は泣いちっち」と歌われたのは1959年、詞と曲はハマクラさん(「夜霧よ今夜もありがとう」(1967年)など)、「夜霧に、お礼を言う」なんて、とぼくは驚いたね。東へ東へ、と空前の民族大移動。その一人がぼくでした。それ以前は「リンゴ村から」(三橋美智也・1956年・メルボルン五輪)、彼女が東京へ行ってしまって、「おいらは泣いた」という悲恋物語。と行くと、ぼくの悪癖はどこまで行っても終わりません。この後に、「お月さん今晩は」(遠藤実曲・大谷廸夫詞・藤島恒夫歌)。「月に挨拶している。ヤマトンチュウは礼儀正しかったんだ、万物を擬人化してさ」なつかしさに誘われて、歌いたいけど、「こんなさみしい田舎の村で」と多分は、新潟のある地域で「ひとり泣いていた」のは藤島恒夫さん。やっぱり男なんです、泣いているのは。

ぼくは流行り歌(歌謡曲とも)なら、「船頭小唄」(野口雨情詞、中山晋平曲)(1921年)以降のほとんどを記憶しています。(流行らなかったものはダメ)。自慢するんではないのですが、学校では教えてくれまなかったし、試験もなかったから、記憶に長く残ったんでしょうね。なんでこんなのまで知ってるんだと、自分で驚くこともある。唱歌もしかり。浪曲も、落語も、小唄も、俗曲もと、情けないくらいに脳みそが欲しがりました。今では、邪魔になっていますがね。そのなかでも大好きなのは、…。止しておきます。これらは、歴史の学習だったし、漢字や、世情、友情や恋愛の…。これに軍歌を加えれば。これは、ついぞ歌いませんでしたが。
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最初は「そば・ソバ・蕎麦」に釣られて、暖簾をくぐったら、「僕は泣いちっち」が聞こえてきたという塩梅です。何の当てもなしに「凡語」に行き当たり、そこからの連想で「東男に京女」と行こうとしたんです。『伊勢物語』の世界ですかね。「名にし負はば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人は、ありやなしや」とこのまま続けていいですか。「言問橋」なら、こまどり姉妹ですが。何度渡ったことか。今ではスカイツリーが我が物顔で屹立している、墨田川とくれば、「明治一代女」の市丸姉さんです。とにかくぼくは、この『伊勢』だけは大好きでした。古典・古文というものには興味もなにもありませんでしたが、これだけは別だった。なぜでしょうか。業平橋もあります、言問橋の近くに。さらにその上手には泪橋。ここも懐かしい場所です。酔っぱらったおじさんたちが路上で横たわっていました。もう四十年以上も前の明治通りです。

高校時代の古典の教師二人。女先生は、父上は池田亀鑑という国文学の大御所でした。でも、娘さんの授業は、ぼくにはさっぱりで、馬の耳に念仏というのだったか。「徒然草(稚児と桜)」を朗読させられた時には往生しました。兼好さんの庭のような土地に高校がありました。その北側に仁和寺。もう一人は『万葉集』の研究では大家となった伊藤博さん。詳細は省きますが、高校教師時代は「好色」の感が漂っていましたね。立派な教師に恵まれていたのに、ついに古典は惨敗でした。無能は救い難しですね。ぼくが学校に気を許さなかった(理由と)結果は、語るに落ちる話であったという証拠になりそうです。ようするに、学校外で羽根を伸ばしていたんです。
歌謡曲対古典文学、端から勝負がありました。流行り歌の圧勝でしたね。慙愧に堪えませんというべきかな。

● 寒露=晩秋から初冬にかけての、霜になりそうな冷たい露。 二十四節気の一。10月8日ごろ。このころになると、北地では初氷がみられるようになる。《季 秋》(デジタル大辞泉)
茶の木咲き いしぶみ古ぶ 寒露かな(蛇笏)
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いくら「行方定めぬ旅枕」でも、これじゃあ、と我ながら思います。朝からのホスピタルが原因というのではありません。MUJI ならぬ、MUKE (無計画)でした。気分転換に、なにする?
それにしても、寒おまんなあ。
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