勉強は偏差値と無関係、精神の体操だ

《 幾何学の冷たい顔の前で尻込みしたその当人が、自分で選び従事してきた職業についていて、二十年後に私が彼にめぐり会い、実地にやってきたことにおいて彼は十分に聡明であるのに気づく》《そのことから私は、生徒の勉強は性格のための試練であって、知性のためのものではないという結論に達する。それが書き方(綴り方)であろうと、訳読あるいは計算であろうと、重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである 》(アラン)

 学生時代から、ぼくはアランをよく読んでいました。彼はフランスの哲学者であり、高校教師でもありました。(1950年に亡くなっています)若いぼくには、まるで「巨人」(野球じゃない)のように思えました。決してマッチョではないのに、権威や暴力にはビクともしない、そんな風貌の人だったし、実際に彼の教室で学んだ人たちの記録に当たれば、理不尽だと思われることには梃子でも動かない、そんな教師だったといっています。ぼくはあこがれましたね。こんな人に、なってみたいと、まるで宮沢賢治なみの詩興か感じました。アランの強さはいろいろなものから育ったのでしょうが、ぼくは、何よりも彼の高校時代の教師だったジュール・ラニョー(右下写真)から学んだと思っています。機会を見つけてこの人についても書いてみたい。『ラニョーの思い出』というタイトルの著書がアランにはありました。彼の生徒だった人たちの教師・ラニョー像を語ったものです。

「彼のクラスは知性の鍛錬の場であると共に、勇気をためす場ともなった」(『ラニョーの思い出』)

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 アランのことばについてです。幾何学ではさっぱりだった人間が、二〇年後に会ったら、とても聡明だということがわかった、自分で選んだ仕事だったからだと。選ぶというのは一回きりではない、いつでも選んでいるのだ。人間はつねに選択を迫られている。でも、習慣に染まっている人間は選択の余地を持たないのです。

 《人間の体内にあって、運動を伝える筋肉(随意筋)は、唯一、私達の支配し得るものである。眼の前にある本を取ろうとしても、実際に、腕を伸ばさなければ本は手に取れないように、何かを欲するだけでは足りない。具体的に運動を伝える筋肉を動かさなければならないのだ。握っている拳を開かせるのは、私達の命令による筋肉の働きである。嫌な気分を解き放す良策は、笑いにあるといったが、では、なぜ微笑みが不機嫌に有効なのだろうか。不機嫌の原因は、外にもあるが、私達の体内にもある。姿勢を変えれば、不機嫌は解放される。その時、私達の体内には、瞬間的にさまざまな動きが生じているのである。だから、姿勢を変えることによって、さまざまな運動が方向を変えられるのである。怒り狂っている時、確かに、私達の血圧はあがっているし、脈拍は高まるし、血液は激しく循環している。私達のものである随意筋を介しての運動は、このような体内の激しい運動に大きな変化を与えることになる。微笑みも、欠伸も、決して小さくない影響を体内の運動におよぼすことができるのである》(岡村遼司『道徳教育への遡行』)

 まわりくどい表現で読みやすくはありませんが、「道徳」とぼくたちが称しているものの正体というか、性質について述べられています。困ったときには姿勢を変える、腹が立ったら、笑ってごらん。腹が減ったら、ご飯を食べな。握ったこぶしを開いたら、怒りはどこかに行っちゃった。眠くなくても欠伸(あくび)をしよう。(教師は怒るだろうな)なんだそんなことか、と思われるかもしれませんが、なかなか、理屈通りに行かないのが、「情念」なのです。その「情念」とうまく折り合いがつけられれば、世の中の不幸のかなりの部分は生み出されなかっただろうと、ぼくは考えてきました。そうです、不幸が減ってくるのです。そこで、問題は「不注意」なんです。 

 アランの「真実の先生」はデカルトでした。時代がうんと離れていますが、アランこそデカルトの正統な弟子だったといえます。そのデカルトは不機嫌などのような気分一般を「情念」(passions)と呼びました。さらにはこの情念はぼくたちの思考(想像力)に依存する以上に体内の運動にはげしく左右されることも明らかにしました。人間は奇妙な存在です。自分の性格を知っているつもりで、ときには思わずしでかしたことに対して茫然自失する。人間は一つの器械だともデカルトはいいましたが、それはあまりにもしばしば故障を起こす器械のようです。高尚なことを考えていたかと思えば、悪魔も驚くような残酷なこともやってのける。

 ようするに自分が器械であることを十分に受けいれていないことから諸悪(不幸)は発生するにちがいないのです。後悔先に立たず。あるいは、転ばぬ先の杖とも。つまり「道徳」は「転ばぬ先の杖」みたいなものなのかもしれない。ぼくたちの不幸の十中八九は、自らの不注意から生じてきます。階段を踏み外したり、車にはねられたり。他人を恨んだり妬んだり、自他を傷つけたり殺したり。焦りや不安に駆られて、自らの気分を上手に制御できなかった結果です。

 ここで「気分」というのは、想像や想念から生じる、いらだちや倦怠、あるいは不安や恐れのことをさします。簡単な計算問題を前にして、よしなしごとに心奪われ、注意力が働かないことはだれも経験することです。急いでやって5+8=14、とまちがうのと、あらぬことを想像していて通行人をひいてしまう、その過ちは同根ではないか。もっといえば、数学の問題は注意力を養うまたとない機会だと思われるのです。計算のまちがいは消しゴムでけせるが、車で人をはねてしまえばそうはいかない。問題は「注意力」をどうして自分のなかに育てるか、です。

 すべての勉強(ものを学ぶということ)は子どもの性格(不注意・あせり・わがまま・あきっぽさなどなど)のための訓練であって、知性・学力・成績(物知りになる)のためのものではないというのがアランの道徳論の核心でした。「気分転換」というのは、とても大切な精神の体操ですね。

 嘘つきが嘘をつかなくなるように、意地悪が優しい人に、わがままな子が自制する力を自分で育てるように、不安に駆られやすい人が腰をすえることができるように、そのように「変わることが学ぶ」ことであり、これは教養教育(教養を身に育てる)なのだ、とぼくは一つ覚えのようにいってきました。そして、それはまた、道徳教育そのものだといってもいいのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです