
以下の引用はどこかですでに用いたものです。ぼくの感覚では、何度でもこのソローの姿勢や態度(すなわち「哲学」)から、自分流に学び取りたいと、彼が生きた時代の環境や政治制度とは正反対の過密状況に生きているからこそ、かえってぼくたちが失ったもの、あるいは取り戻す必要のあるのもが明らかに映し出されているのではないか、そんなふうにぼくは考えているのです。ソローが生きていた時代は「呼べば答える近さ」であり、それはぼくたちの歴史にまっすぐにつながっているのです。同じ道を歩いてきたのですから。
《 私はいかなる人とも国家とも争いたいとは思っていません。些細なことにこだわったり、つまらない差別をしたり、隣人たちよりも上位に自分を置きたいとは思っていません。むしろ私は国の法に従う口実を探してさえいると言っていいでしょう。もういつでもそれに従う用意はできているのです。ところが実際はこういう自分に疑問をいだいてしまうのです。(中略)

しかし、私にとって政府はそれほど重要でもありませんし、政府について将来考えることもほとんどないでしょう。この世界に暮らしていても、私は政府のもとで生きている瞬間はそれほど多くありません。実際、人は思想、幻想、想像の虜にならないかぎり、すなわち存在しないものを長期にわたって存在していると思わないかぎり、愚かな支配者や改革者によって致命的なかたちで干渉されることはありません。(中略)
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●Henry David Thoreau=「アメリカのエッセイスト、思想家。(1817年)7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれる。ハーバード大学卒業時の演説「商業精神」で、週に1日のみ働き、「あとの6日は愛と魂の安息日として、自然の影響にひたり、自然の崇高な啓示を受けよ」と語り、一生この主旨に沿った生き方を試みようとした。家業の鉛筆製造事業のほか、教師、測量、大工仕事などに従事したが、定職につかず、コンコードに住む超絶主義者のエマソンや彼の周辺の人々と親交を結び、日々の観察と思索を膨大な量の日記として残した。」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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私のような者が進んで従うつもりの政府の権威―というのも自分より知識と実行力がある人に、また多くの点でそれほど知識や実行力のない人にも、私は喜んで従うつもりなのです―そういう権威であっても、やはりまだまだ未熟なものです。政府の権威が厳密に正当であるためには治められる者の承認と同意が必要です。政府の権威は、私の身体と財産に対して、私が認めたもの以外は、なんら理論的な権利をもつことはできません。専制君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進展は、ほんとうに個人を尊重する過程です。私たちが現在知っているような民主制が、政府において可能な最後の到達点なのでしょうか。人間のさまざまな権利を認め、それを有機的につなげるさらなる前進は可能ではないのでしょうか 》(ヘンリー・デヴィッド・ソロー『一市民の反抗―良心の声に従う自由と権利―』山口晃訳、文遊社刊。2005年)
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●「作品には、兄のジョンJohn Thoreau Jr. (1815―1842)と1839年に行ったボート旅行をモチーフにした随想と詩『コンコード川とメリマック川での1週間』(1849)と、ウォールデン池畔に小屋を建て、自然の啓示を受けて単純素朴に生きる実験を行った2年2か月の生活を、初夏から次の春までの1年分にまとめた『ウォールデン――森の生活』(1854)がある。ソローは具体的事物を細かく観察したが、事物を単に事実としてのみ見ずに、ウォールデン池について、「この池が一つの象徴として深く清純に創(つく)られていることを私は感謝している」「私が池について観察したことは、倫理においても真実である」と説くように、具体的事物のかなたに普遍性を読み取ろうとした。それが「自然の崇高な啓示を受ける」ことにほかならず、このためには、観(み)る行為が正確で純粋でなければならないと同時に、観察した事象について時間をかけて思索する必要があった。ソローは1862年5月6日、44歳で死んだが、思索を十分練らないままに残された旅行記は、『メイン州の森』(1864)、『ケープコッド』(1865)、『カナダのヤンキー』(1866)の3冊にまとめられ、それぞれ死後刊行された。」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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《 国家が個人を国家よりも高い自律した力として認め、国家自体の力と権威はその個人の力から生まれると考え、そして個人をそれにふさわしいかたちで扱うようになるまでは、ほんとうに自由で開かれた国家は決して実現しないでしょう。すべての人にとって公正であり、個人を隣人として尊重して扱う、そうした余裕をもった国家が最後にはできることを、私はひとり想像しています。そのような国家は、もしも国家から離れて暮らし、国家に口をはさまず、国家によって取り囲まれず、それでいて隣人、同胞としての義務はすべて果たす少数の人たちがいても、その安寧が乱されるとは考えないでしょう。国家がそのような果実を結び、熟して自然と落下するような経過をたどれば、さらに完全で栄光ある国家への道が開かれるであろうとまた想像することもありますが、そのような国家はまだどこにもありません 》(同上)
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●「ソローはまた若いころから家族ぐるみで奴隷制に反対し、奴隷制を許す体制を批判して人頭税納付を拒み続け、1846年7月投獄された。1日で釈放されたが、このときの体験がのちに『市民としての反抗』としてまとめられた(1849)。個人の良心に基づく不服従を説き、「まったく支配しない政府が最上の政府である」と主張するこの書物は、のちにガンジーやキング牧師に愛読された。」[松山信直](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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彼が亡くなった時から、およそ百六十年が経過しました。彼の没年は明治維新直前に当たります。この百六十年は加速度的に、この島社会が世界に向けて開かれていった(翻弄された)時期でもありました。「文明開化」と称される時代の激流はあらゆるものを舐めつくすように、この島の姿を激変させてきたとも言えます。いわば「文明と文化」の対立とも拮抗ともいえる事態が延々と続いてきたのです。(左はターシャ・チューダ・Tasha Tudor 1915-2008)
「文化」は地域に根差した、地域独特の生活(思考・行動)様式であり、それは自然の環境を背景にしてしか成立しなかったものです。一方、「文明」は科学や技術の一定のレベルがあれば、いかなる自然環境も一変させる力を有しており、各地域の「文化」を呑み込んで(平定して)いったのです。その結果、地域間の生活様式の差はなくされ、生み出されたのは格差でした。文化は個々の違いを見せますが、比較は無意味です。一方の文明は「開かれているか、未開化」という点では程度の差、つまりは「格差」「優劣」が問題にされるのです。高いか低いか、進んでいるか遅れているか。まるで「偏差値」だね。
だからこそ、ぼくは「時代錯誤(anachronism」」に思いをはせてみたいと考えつづけてきたのです。この言葉は「否定的」「嘲笑的」「侮蔑的」というように、総じてマイナス評価がつけられるものです。あえて、ぼくはこれを取り出し、「アナクロニズム」のどこが悪いのか、それを考えようというのです。逆にいえば、「時代の流れ」だの「世のなかの大勢」だなどと言って、その風潮に自分を合体させるだけが意味のある生き方なんかではないことはだれも知っています。ソローの時代にあって、彼自身は「時代遅れ」と罵られていました。いままた(いつでも)「時代遅れ(ガラケー)」を意味もなく詰る輩が群生しています。それを否定(拒否)しませんが、時代の波に翻弄されるとどうなるか、それを黙考したいだけなんですね。ぼくはガラケーでさえもない。携帯電話を使ったことがありません。ましてスマホなど…。

ぼくは歩きます。かなり歩く方でしょう。嫌いでもありません。山の中を十キロほど、天候に恵まれれば、ほぼ毎日歩きます。都会(拙宅の近郊(十キロ先)にもあります)では「動くベルト(ランニングマシーン)」に乗って走らされている、しかもお金を出して。人間のモルモット化か。「時代錯誤」とはなんでしょうか。
「自分の脚で歩く」と、「動くベルトで走らされる」と。あなたはどちら派ですか?(つづく)
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