いつか来た道は、ぼくは初めて通るが

 筆洗 文芸春秋編集長などを務めた池島信平は日米開戦の前、歴史学者、羽仁五郎を訪ねている。破竹の進撃を始めていたドイツについて、<やがて同盟国の反抗に遇(あ)って負けますよ。必ずドイツは負けます。こんな国と日本が組んだら大へんだ>と聞く▼あまりの正しい予想に敬服したと池島は戦後、書いている。(『雑誌記者』)。マルクス主義史観の羽仁らは思想弾圧を受け、言論界に、沈黙も訪れた時代である。「正しい予想」も世の中には大きな影響を与えることはなかった▼戦後、羽仁も加わって発足した日本学術会議は、学問と思想の自由を掲げることになる。政府と軍事をめぐる問題などで関係が緊張したこともある。「正しい予想」が生かされなかった戦前の反省が、どこかにあったのかもしれない。政府が露骨に組織の人事に踏み込んだことはなかったという▼権力と学問の関係の中で不安がよぎる話である。菅義偉首相が、日本学術会議の新会員候補六人の任命を拒否した。なじみのある名前も並んでいる。特定秘密保護法に反対を示していたことなど、政府の方針に対し、どんな立場だったかが、理由になっている可能性があるという▼法的にも妥当性に疑義が出ている。詳しい説明が必要だろう。お気に召さない人を遠ざけるのが菅さんの手法なら、それも気になる▼学問の世界に沈黙がおとずれないことを願う。(東京新聞・2020/10/03)

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 任命拒否問題が尾を引いている。もっともっと引かなければなるまい。「筆洗」氏のいう羽仁五郎さんは、治安維持法で逮捕され、敗戦後に釈放された。後年になって、鶴見俊輔さんに「敗戦の日になぜ君は僕を助けに来なかったの?」となじられ、その瞬間に、鶴見さんは「アッ」と気が付いたといわれた。「戦後」はどこから始まるかということについて、自分は錯覚していたと。囚われの人々のところに駆けつけることがまず何よりも優先されるべきだったというのでしょう。「バスチーユ」に気がつかなかったのです。この直後、三木清や戸坂潤たちは獄中死を余儀なくされています。(学生時代に、一度だけでしたが、お逢いしたことがりました)

 いい加減にこの問題への言及をやめにしますが、言いたいことは、触れるべきではないものに手も出し足も出す政治権力のあやうさについてです。なんでもできるとばかりに、手当たり次第に勝手な振る舞いをするような政治権力は断罪しなければならない。学術会議だからどうとかいうのではありません。この問題を放置しておくと、どこかに出かけるにも届け出が必要だというような、埒もない事態を招くからです。「何がなくとも、まず交番から」というのはいやだ。この数年の間に、さまざまな法律が強引に制定されてきたのは承知の事実です。

 現政権はそのような時代に即さない状況をさまざまな抜け穴を悪用して生み出してきた前政権の直系であり、その性格は「居抜き」と言われるように、まったく同じ路線上を邁進しようとしているのです。前に向かって進んでいるように見えますが、実際には「治安維持法」時代の昭和初期(一世紀近く前)へと爆走・逆走しているのです。逆走時代というけれども、時代(時間)を遡れないのは物理の法則に問うまでもありません。だが、その不可能事を可能にしようというのだから、開いた口が塞がらないというのだ。どんな政治家も、誰からも穏健であると証明書付きのような者でも、いったん権力の椅子に座れば、標線します。君子豹変すというのではない、それまでは猫をかぶっていただけ、雌伏何年という耐性・持久力はあるんですね。

 ぼくは昭和初期を知りません。未生以前です。でも歴史の教えるところによれば、状況は今日と酷似しているとまでは言えないまでも、世界の政治・経済の現状、コロナ禍に呻吟する諸国、見通せない世情・世相への不安など、十分に透視できない「時代閉塞」の風潮は、さまざまな証拠類に照らして、当時に重なるようにも思えるのです。これを二重写し(オーバーラップ)という。「いつか来た道」とは誰も考えないだろうが、気が付いてみたら、同じ道を歩いていたということになりかねません。しかしながら、「歩く人にとっては初めて足を運ぶ道なんです」それをして、歴史はくりかえすというのかもしれません。

 学術会議がどんな性格のものであったか、いろいろな視点から確認することができます。先ず第一に、羽仁五郎さんが主要なメンバーとして設立初期の会議体をリードしてこられた、この一点を知るだけで、実際上の性格が判明するというものです。羽仁さんは一貫してバリバリのマルキストであったし、それを理由に獄中生活を余儀なくされた方でした。その他、挙げれば際限がなくなりますが、学術会議は権力者の意向で左右されることがあってはならないのに、それを敢えて犯した錯誤は、政府にとっては、なかなか高くつきそうです。鈍刀はやはり鈍刀、「汝自身を知る」に勝る処方箋は見当たらない。「過ちては改むるに憚ること勿れ」という俚諺の意味が主だった政府筋の面々に理解されるでしょうか。無理かも。

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●羽仁五郎(1901-1983)大正10年渡欧、ドイツ・ハイデルベルク大学で歴史哲学を学ぶ。昭和2年東京帝大卒業後、同大史料編纂所嘱託、日本大学・自由学園講師となり、3年日本大学教授、史学科を創設。三木清らとの討論により、歴史問題と唯物史観の構想に開眼。同年「新興科学の旗の下に」の創刊に参画、4年プロレタリア科学研究所創立に参加。6年マルクス主義学者として「日本資本主義発達史講座」では明治維新を執筆し、人民史観的考察で維新史研究に新時代を画す。その後も人民の抵抗精神を標榜し、治安維持法違反で2度逮捕され、終戦を獄中で迎えた。戦後、歴史研究会の再建に尽力、「日本人民の歴史」(24年)をまとめた。また22年には無所属で参院議員に当選。国立国会図書館の創設、破防法反対、学問・思想の自由保障委員会の中心になるなど精力的に活躍。2期つとめた後は著作に専念。23年より3期、日本学術会議会員。43年の「都市の論理」は大学紛争の全共闘運動に大きな影響を与えた。他に「転形期の歴史学」「歴史学批判序説」「明治維新」「ミケルアンヂェロ」などのほか、「羽仁五郎歴史論著作集」(全4巻 青木書店)「羽仁五郎戦後著作集」(全3巻 現代史出版会)がある。(20世紀日本人名事典の解説)

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dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。