主権在民の否定、それが政府の真骨頂だ

1915年、秋田県六郷町(今の美郷町)生まれ。21歳で新聞記者になる。45年、敗戦を機に朝日新聞社を退社し、48年に横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。78年に780号で休刊した後も評論家として活動した。2016年に101歳で死去。(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)

「本物のデモクラシーは少数意見を尊重するだけでなく、むしろ少数意見の発生を助長する。本物のデモクラシーは満場一致の成立を歓迎しないだけでなく、むしろ嫌悪し警戒する」

「肉体に身の丈があるように、精神にも身の丈がある。それを思い知らされた人はふるい立ち、出なおすものではあるまいか。打ちあけると私は幾たびも自嘲をバネとして元気を取り戻した。内なるわが身の丈をゆびさして、「おまえはなんとおろかなやつだ」とあざけるおのれに向かって、「くそくらえ」ともう一人の自分がつかみかかるように腰を上げて、それで失意のそこから歩き直すことができた」

「学校教育の課目の中で、「歴史」は内容がいきいきしていて、人を賢くする養分が特に抱負です。青少年は飛びつくはずなのに、背を向ける理由は、二つ考えられる。第一、人民にあまり賢くなられては困る支配権力が、歴史嫌いの青少年をふやそうと教育内容に干渉している。第二、権力のそういう悪だくみを打ち破れるまで親も子もまだ賢くなっていない」

「学校のテストでは、問いも答えも教師によって用意されていて、生徒は弓矢で標的を狙うようにして単一の正解を射ようとする。社会生活で出会う試練では、問題が他人によって用意されている場合よりも、何が問われているかを自分で考えなければならない場合が多い。解答も自分で手づくりして、ああでもない、こうでもないと模索を重ねながら解いていく。学校のテストで訓練される能力と、社会生活で要求される能力とは、方向があべこべだ。学校の優等生が社会で落後しやすいのは当然である」

「…一プラス一はいくつ?」と問うて「二」という答だけを正解とし、他の解答にはみなバッテンをつけ、バッテンの多い子を劣等視する行為は、人間そのものの開発をめざす教育とは全く無縁である。学校が子供から個性を抜き取る装置であることをやめるには、テストの成績で子供に優劣をつける振る舞いをやめるだけでなく、そもそも子供をヨイ子とワルイ子、優等生と劣等児に区分する発想を棄てなければならない。もしテストをやめれば学校が成りたたないなら、学校それ自体をやめなければならない」(むのたけじ著「詞集 たいまつ Ⅲ」評論社刊、1988年)

東京新聞(2013/11/28)

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 むのさんが亡くなられて四年が経過しました。むのさんは、自分には「余生」も「老後」もない、死ぬ時が来るまで「現役」「生きている今が、いつも頂点(てっぺん)」だと宣言され、その通りの生涯をまっとうされました。戦前は新聞社の、戦後は個人経営の新聞で、あたうかぎりの健筆、鉄筆を振るわれたと、ぼくは受け取ってきました。「新聞人」というものが驚くほど軽薄になり、主張を持たなくなった時代にも、むのさんはさまざまな方向から叱咤を飛ばし、激励にこれ務められたといえます。亡くなられてから、その存在の稀有であったことがいまさらのように思われてならないのです。桐生悠々、石橋湛山と並んで、むのさんは、ぼくにとってはかけがえのない「民主主義」の橋頭堡のごとき存在でであったとの思いを深めています。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。