委縮につながるものではない、だと

「日本学術会議」 任命されなかった6人の学者はどんな人? 任命除外される異例の事態。「政府に反対した学者」が含まれており波紋が広がっている。ハフポスト日本版編集部
 
学術会議は、科学に関する重要事項を審議したり、研究の連絡をすることを目的にした科学者の組織だ。政府に対して提言をするのが役割の一つ。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員。この210人の半数の105人が3年ごとに入れ替わる。/ 会議は、内閣総理大臣が管轄するが、政府から独立して職務を行う「特別の機関」だ。国費で運営される。原子力三原則など国の大型プロジェクトの元になる「マスタープラン」を策定したり、素粒子実験施設の誘致についてや地球温暖化、生殖医療などについて提言や声明を発表したりする。人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を代表し「科学者の国会」とも言われる。/ 菅首相は10月1日、会議が推薦した会員候補105人のうち6人を除外して任命した。推薦された人を任命しなかったのは、会議が推薦する方式になった2004年度以来初めてのことだ。(ハフポスト日本版編集部・2020年10月02日 16時05分 JST )(加藤官房長官「萎縮に、直接つながるものではない」 日本学術会議、任命問題で)

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 この問題について、すこしでもコメントをする気にもなりませんが、放置しておけないので持説を述べておきます。先にも触れておいたように、この内閣の閣僚たちは、以前にもまして一段と精神(智慧)のレベルで劣化が著しい。政治を心得違いしているし、自らの立場を必要以上に膨張させて、触れてはならないようなことに乗り込んでいます。「地雷原に入り、いくつもの地雷を踏んだ」といった通りです。国会を開かないで好き放題というよりは、唯我独断でことを進め、深みにハマっていくのでしょう。なんでもできるという自己錯誤が、この能天気な政治屋たちをして、荒唐無稽な権力のでたらめな行使に走らせているのです。側用人たる、多くの官僚たちは「面従腹背」を旨として、面白がって政治屋を煽っているきらいがあります。「この馬鹿どもめが…」と小声で叫びながら、明日のわが身を熟慮する、そんな自己保存本能でのみ生きている。

 このような政治家に嗅ぎ取れるのは、これぞ「不遜」というものと、まるで絵にかいたような傲慢な態度であります。今時、こんな珍種が生息しているのは、きっと永田町界隈だけだと、ぼくには思われます。それにしても、よくぞ今日まで生存していたなと、驚嘆するほどです。PMにはその傾向が顕著であるといえます。「質問には答えない」「問題はまったくありません」などと「木で鼻をくくった」ような「答弁にならぬ答弁」を飽きもせずに繰り返してきました。そのこころは、「質問には答える能力がない」「問題があり過ぎてどうしますか」と白状しているようなものです。前任者の後ろか横に八年近くいて、すっかり「学習した」と言いたい風袋ですね。後任の官房長官もまた「前任者を踏襲です」という下品な演技ぶり。政治活動によって、何をどうしようという魂胆すら皆目見えないのは、何という芸当でしょうか。前代未聞、空前絶後の「珍妙な風景」とはこのことです。

●《木で鼻を括(くく)る=「くくる」は「こくる」の誤用。「こくる」はこする意》無愛想に応対する。冷淡にあしらう。木で鼻をかむ。「―・ったような返事」(デジタル大辞泉)

東京看護学セミナーで講師を務める武谷三男氏(1965年ごろ)

 学術会議はなければならない機関だと思います。ぼくには興味も関心もありませんが、その理由のようなものと言えば、かかる機関が果たす役割は、政治面においても、いくらでもあると考えるからです。どこかで触れた物理学者の武谷三男さんは、日本の原子力政策では貴重な活動をされました、学術会議において。詳細は省きますが、「自主・民主・公開」という三原則を原子力政策の大前提にしたのは武谷さんの努力によるところが大であったし、それは学術会議がなければ実現しなかったともいえるのです。(その後の原子力政策のインチキさは今に至るまで、目を覆いたくなるようなひどさです。欺瞞に満ちた電力政策は、東電の「原発事故」までまっしぐらでした。学術会議は何をしていたのか)(「御用機関」あるいは「承認機関」に甘んじていたいなら、会員諸兄姉は学者・研究者をお辞めになればいいし、もしそれが嫌なら、断固として「異議申し立て」をしなければなるまい。

 今回の事態がどういうことなのかを彼(政治屋)らは理解していない。「文句を言うやつ」「楯突くやつ」「気に入らない存在」には✖をつける「権限・権能」があるという、驚天動地の無知が彼らを支配しているに違いない。でなければ、かかる愚行はできるものではないからです。この先、どう展開するのか、ぼくは岡目八目を決め込みますが、かりに学術会議が「言いなり(不発弾)」だとするなら、もう会議(機関)そのものを「解散」する方がいいでしょうし、ぼくをそうなることを(消極的ながら)期待しています。何かの必要性が生まれれば、「自主・民主・公開」を旨とした自前の会議体を、新規に作ればいい。まるで「芸術院」のような暗愚組織になっていたんだったら、即座に解散ですね。

 こんな仕打ちをしたら、「怖がって、政府に異論が言えなくなるのではありませんか」という記者の質問に、「委縮に、直接つながるものではない」とのたまわった。そのこころは「間接的につながる」ことを期待(画策)していると白状したことになりますし、不謹慎きわまりない、いかにもふざけていると、ぼくが想うのは、自分で答えるのかよ、「そんな人はいない」となぜ君が答えまで言うのか、という点です。「自問自答」ならぬ、「自作自演」です。下手な芝居さ。振付は誰だ、Kanか。

 他人の頭を殴っておいて、「怪我をしたらどうすんの」と注意され、「そんな人はありません」と、殴った当人が言うのかね。偉そう(上からの目線でものを言う)にしているにもかかわらず、観衆(民衆)の意向(顔色)を伺っている(上目遣い)という「気色の悪さ」が気に入りませんね。きっと「引かれ者の小唄」を口ごもっているにちがいない。よく聞いて見な。

 オーウェルに倣うなら、さしずめこの島は「動物列島」ですな。もちろん、ぼくも勘定に入れています、蟻かなんかで、「動物かどうか」怪しいが。なんでこんなことになってしまったのか、この劣島は。湛山さんに訊いて見たいですね。

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 おれは雑草になりたくないな

  みみず      大関松三郎(1926-44)
何だ こいつめ
あたまもしっぽもないような
目だまも手足もないような
いじめられれば ぴちこちはねるだけで
ちっとも おっかなくないやつ
いっちんちじゅう 土の底にもぐっていて
土をほじくりかえし
くさったものばかりたべて
それっきりで いきているやつ
百年たっても二百年たっても
おんなじはだかんぼうのやつ
それより どうにもなれんやつ
ばかで かわいそうなやつ
おまえも百姓とおんなじだ
おれたちのなかまだ
 
   雑草
おれは雑草になりたくないな
だれからもきらわれ
芽をだしても すぐひっこぬかれてしまう
やっと なっぱのかげにかくれて 大きくなったと思っても
ちょこっと こっそり咲かせた花がみつかれば
すぐ「こいつめ」と ひっこぬかれてしまう
だれからもきらわれ
だれからもにくまれ 
たいひの山につみこまれて くさっていく
おれは こんな雑草になりたくないな
しかし どこから種がとんでくるんか
取っても 取っても
よくもまあ たえないものだ
かわいがられている野菜なんかより
よっぽど丈夫な根っこをはって生えてくる雑草
強い雑草
強くて にくまれもんの雑草

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 私は今、諸君にひとりの友だちを紹介しよう。

 大関松三郎が、それだ。

 松三郎は、真実を語ることのできる少年だった。まれなほどしっかりした「自分」をもっている少年だった。諸君は友だちとしてテヲとっても損をしない人間だった。いや「自分をもっていた」というより、「自分をもとうとしていた」といったほうが正しいだろう。「自分をもつ」ということは、決してかんたんなことではない。松三郎は、その「自分」をもとうと努力していた人間といったほうがいいだろう。松三郎の目は、外のものにむかっても、くいこむようにするどかった。じっと、「自分」をみつめた目は、何にもまして、もえるようにはげしかった。(寒川道夫「―指導記録―いのちの歌」)

 「指導教師」の寒川さんは「みみず」「雑草」について、以下の記録を残しています。(「解説 松三郎の詩」)

 「みみず」 これはいたましい百姓のうたである。私は前に、盲になった百姓に、時代への目覚めをあたえる「もぐらのうた」というのをかき、「たとえ野ざらしの風に身をさらされようと、一度土をけって青空の下に出よ。そしてつぶれたまなこをひらき、大空にもえる太陽を仰げ」とうたったことがある。それは、光をおそれ、氷をおそれ、土の底へ底へとくぐり、弱いはだかもの、幼虫などを餌食にし、目をひらくことを怠り、人の臭いだけかぎわけて生きる陰惨な前世紀的な動物に托して、百姓をはげましたものだった。松三郎はそれをしっかり覚えていた。(中略)

 この「みみず」には、その「もぐらのうた」からの考え方がふくまれているけれも、松三郎はそれを、百姓の立場から感じうたっている。「はだかんぼうのやつ」とののしっているのは、このかわいそうな生物だけでなく、自分のみじめさを、泣きながらむちうっているのだ。「おまえも百姓とおんなじだ。おれたちのなかまだ」ということばには、いたましいまでのすごさがこもっているではないか。

 「雑草」 「おれは雑草になりたくないな」ということばは、しんからに雑草をきらう心持をあらわしている。しかし、同時に雑草の野性的な強さにうたれ、人にかこわれて育てられる野菜のひよわさもにくんでいる。ここにはいろいろこみ入り、矛盾しあう問題がふくまれている。ある時、私たちのクラスで二宮金次郎が「尊徳夜話」に書いていた、雑草を悪玉とみて、悪玉を刈るのが天道をあらわすものだということについて議論がはじまったことがあった。そして、善とか悪とかというものが根本的にどうしてきまるのかということで、だいぶ問題がこんがらがってやかましくなった。その時、松三郎は「イソップ物語なんかみると、狼は羊を食ったから悪い動物のようにいってるけれども、もし羊を食うなといったら、何を食ったらいいんだ。羊が草を食っても悪いやつといわれないのは、草が黙っているからだ。草だって心ではおこっているだろう」というような事をいった。

 この「雑草」には、そういう黙っている雑草、抗議することのできぬ雑草がふくまれているようだ。しかし、そういう雑草になりたくないなといっている心には、松三郎の、人間的な希望が強く動いていたように思う。それは、一種の社会的倫理感と もいうべきものであった。社会的に意義のある人間にならねば、という、少年らしい清潔な大志がもえていたというべきではなかったか。

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 今回は上掲の「二つの詩」だけを載せておきます。これまでに、いったい何百回読んだことでしょう。いささかの詩心もない人間だからこそ、この詩はどんな人が書き、どんな思いをこめたのだろうと、繰り返し考えつづけているのです。寒川道夫という教師の指導の下、大関松三郎という小学生の詩の輝きが放たれたあかしとされてきたものです。よき(熱心な)教師と隠された才能を開花させた児童(生徒)の、たぐいまれな合作でもあったでしょう。「生活綴方」教育の頂点に位置すると評価されてきました。だが、毀誉褒貶が激しく、多くの批判や非難が投げつけられても来たのです。(つづく)

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 あと数か月は続くとされる猛火

(山火事「ベア・ファイア」が発生している米カリフォルニア州オロビル湖のビッドウェル・バー橋のそばを進むボート(2020年9月9日撮影)。(c)AFP / Josh Edelson)
【9月29日 AFP】米カリフォルニア州オロビル(Oroville)湖のそばで、橋を眺めていた。夜空がオレンジ色に染まり、遠くの木々のこずえを照らしている。丘の中腹に炎が点在し、湖面に反射している。写真を1枚撮った。ビッドウェル・バー(Bidwell Bar)橋を渡る道路は、山火事のど真ん中へと、まっすぐ突き進んでいるように見える。
 私が情熱を注いでいるのは自然災害の取材だ。火災や竜巻、火山など。この地球上で起きている光景を伝えられることが気に入っている。カリフォルニアで10年間、山火事を取材してきた。だが、今年のようなものは見たことがない。山火事の季節が来るたびに新たな事態に驚かされる、というのが今の「ニューノーマル(新常態)」らしい。(中略)
 このコラムは、サンフランシスコを拠点とするフリーカメラマンのジョシュ・エデルソン(Josh Edelson)が執筆したものを、仏パリのローランド・ロイド・パリー(Roland Lloyd Parry)およびミカエラ・キャンセラ・キーファー(Michaela Cancela-Kieffer)が編集し、2020年9月18日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。(https://www.afpbb.com/articles/-/3307061?pid=22691289)
米カリフォルニア州バカビルの山火事で燃える住宅(2020年8月19日撮影)。(c)JOSH EDELSON / AFP州当局は、熱波で記録的な猛暑となっていた中、北部でおよそ1万1000件の落雷が発生したことが山火事の原因だったとしている。
 地域一帯には大気汚染の注意報が発令されている。特にベイエリア(Bay Area)では今後数日間、汚染レベルが非常に悪化するとみられる。(c)AFP/Jocelyne ZABLIT(2020年8月21日 9:50) 

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 毎年のようにこの地は山火事(森林火災)に襲われています。出火の原因は様々で、今回は「落雷」のためだといわれています。八月半ばだったか、この州のデスバレーでは「摂氏54.4度」という度肝を抜くような高温を記録している。猛暑と落雷という自然現象がもたらしたにしては、あまりにも甚大な被害です。今年はオーストラリアでも大きな山火事が発生し(発生は前年末)、生態系に危機的な被害をもたらしたという報道があったばかりです。煙草だったか、過失によるものだったとされています。

「2019年末からオーストラリアで起きた大規模な森林火災。その焼失面積がポルトガルの国土を上回り、一部の野生動植物は完全に死滅した可能性があるほか、生息地の多くを失った固有種も少なくないことが調査によって明らかになった。そして地球温暖化が加速するなか、こうした大規模な火災は今回だけの問題でも、オーストラリアだけの問題でもない。」(NATURE2020.07.24 FRI 11:30)

 なんでもかんでも、地球温暖化にしわ寄せする、という非難は後を絶ちません。たしかにそうではない場合もあるでしょうが、異常気象や海面や海水温の異常な上昇の一因であることは疑いのないところだと思われます。なぜそうなったか、あらためて考えるまでもなく、この百年間続けられてきた地球からの際限のない「収奪」が、今日のあらゆる地球環境の悪化の因をなしているというほかないようです。

 人間世界にも異常現象が巻き起こっています。この原因は何でしょうか。その昔は「地震・雷・火事・親父」などと並び称された「災厄因」でしたが、今では様変わりしています。怖い親父の姿は消滅寸前、まさに絶滅種になりましたが、残りはいつ何時、我々を襲来するか知れたものではないという意味では、予防・防衛の準備をおさおさ怠りなく、と姿勢を固めたくなります。近年の災害は、あるいは人災ではないかという疑問がわき出てくるほど、自然破壊につながる「開発」行為が国土強靭化政策とかなんとかいって、(この島では)多額の税金と大量のコンクリートを注ぎ込んできたのです。

 昨年は立て続けに台風や豪雨に襲われ、ただでさえ柔な拙宅は翻弄されました。それだからではありませんが、それ以前から、ぼくは天気予報には目を凝らしていましたし、とくに太平洋上の雲の動きには神経をとがらせてきたのです。(その熱意は我ながら、あるいは気象予報士になれるんじゃないかと勘ちがいするくらい)近辺の道路など、昨年の「爪痕」はいまだに修復(復旧)されていません。「九月は台風の当たり月」「十月は台風の季節」「十一月は台風直撃の多い月」だなどと誰が言うのだ。「自然の猛威」にぼくたちは謙虚であることが求められています。「最新の科学技術の粋」で頑丈な建造物を、そいつがそもそも諸悪の根源なんです。

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