自分の弱さを自分に隠さない人に

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 自分は平均点(ふつう)より高いか低いかということに一喜一憂するのはあまり賢明なことではない。「ふつう」とか「平均点」というのは、なにかの実体(物事の姿や中味)を表してはいない。「ないもの」「架空のもの」を基準にして、なにどうすればいいのか。何を求めるのでしょうか。高齢化と言われて、さかんに平均寿命が話題にされますが、それと自分の年齢とはどんな関係にあるのか。平均を超えたからよし、平均以下だからダメといえるのですか。

 他人と比較して、自分は背が高いとか低いとかいう。そもそも高い低いは相対(比較)的なものだから、おなじ「百六十センチ」でも相手によって高くもなり低くもなる。あの人より背が高い、でもこの人より背が低いというように、具体的な相手との比較ならまだしも、コンプレックスの正体は「平均値」「ふつう」「人並み」という抽象(架空)的な観念である場合がほとんどだろう。試験の点数が平均(中心)値より右か左かで幸不幸が定まるという「教え」はどこから生まれたか。だれが流行らせたのか。学校はこの点でも大きな過ちを犯してきたのではなかったか。

 そればかりだとはいえないが、学校という場所は生徒を比較せずにはおかない組織・機構でもあるようだ。だれが上手でだれが下手か、どの生徒ができてどの生徒はだめか。英語がいちばんできるのはだれか。国語は…。成績の差を明らかにするのが目的となってしまったと思われるほどに序列化・分類を好む。(高校生の頃、英語の教師からだったと思いますが「このクラスで、一人で平均点を下げているやつがいる」と褒められたのか、貶されたのか。今に忘れない。「それがなんだよ!」(と、非難された時にも、ぼくは発しましたね)

  背比べはこの社会の伝統なのだろう。自分がどれくらい伸びたかというのは、過去の自分との比較においていわれるもの。だがほとんどの場合、ほんとうは比較できないものを比べるのです。だからというわけではないが、自己防衛するにかぎる。そのためにはたやすく数字。数値などに自分をあずけないように用心する必要があるだろう。数字の中に自分を閉じこめないことだ。他のだれもが自分とちがう、その意味は「自分は他のだれともちがう」ということでもある。たがいがちがうというところから出発しなければ、社会(集団)はゆとりを失い崩れてしまう。楽しくないよ。

 「人並み」になりたいとだれもが望むのは理解できるとしても、「人並みにならなければだめだ」と強制されれば、いったいどうなるか。ものの見方も考え方も人並みというのは滑稽な話で、あってはならない。だれかが正しいというから、自分も正しいとおもう、だれかが美しいというから、自分もそう見えるというのはいかにも危(あぶ)なっかしい。その「だれか」とは、いったいだれのことか。「だれか」に「右に倣え」というけったいな風潮は集団に沁みついている。それを利用すれば、統制しやすいということはあるでしょう。「人並み」「普通」というのは、誰かが作った一種の「仮の土俵」です。そこで相撲を釣らなければならないとは限りません。自分はそれとは異なる足場に立つということが大切じゃないですか。

 他人と比べて「劣る」点がない人間はいない。どのような表現を使うかはともかく、自己を偽るわけでも、虚勢をはるのでもなく、自分の弱さや欠点とされる部分を自分に隠さない。自分は他人を妬む「弱い人間」だという自覚をもてば、その分だけ強くなれるのだと、ぼくは貧しい経験から学んだ。人間の強さとはそういうものだといいたい。弱さを自覚するから強くなれそうなのであり、「弱さから強さに変わる」ということではなさそうです。弱さを隠したままの強さなどは存在しない。 金があるから、素晴らしい学歴だから、人は強くなれるのではありません。問題は、自分という「中味」なんですね。

 自らの「弱さ」を埋めるためになにかを得るのは悪いことではない。でも、それが弱さを克服するたったひとつの方法だとするなら、その道は際限がなくなるにちがいない。世の中でもっとも強いと自他ともに任じている人ほど弱いというのは、よくある例ではないか。大事なのは「弱さ」を自分に隠さないこと。自分の欠陥(欠点)をとらえることは、それだけで立派な「能力」なのだから。いうまでもないのですが、弱さをさらけ出したり、開き直ったりすることを勧めているのではありません。まして「嘘」を「嘘ではない」と言い張る輩は、どこまでも弱い人間なのです。

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