「白人至上主義」という毒を飲む

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NBC via Getty Images
レディー・ガガさん=2020年4月6日
アメリカのアーティスト、レディー・ガガさんがビルボードのインタビューに応じ、その中で「Black Lives Matter」運動に関連する自身の意見を話した。
ガガさんは、「この国に生まれた時、私たちは皆『白人至上主義』という毒を飲むのです」と表現し、「私は今、学び、そして、人生で“教えられてきたこと”を脱ぎ捨てる過程にいます」と、自身も価値観を更新しようとしていることを明かした。/「社会正義(Social justice)とは単にリテラシーではありません。それは“生き方”なのです」
「Black lives matter を支持しているか?」/ BLM運動については、下記のように話し、自身の考えを明白にした。
「Black lives matter」を支持しているか? はい、支持しています。
「BLM」はもっと広がると思っているか? そう信じています。
そうなる(BLM運動が広がる)べきだと思うか? そうなるべきです。(2020年09月18日)
(https://www.huffingtonpost.jp/entry/lady-gaga-black-lives-matter_jp_5f641191c5b6480e896c01a3?utm_hp_ref=jp-homepage)

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 彼女はとても重要なことを明確に言い切っています。「この国に生まれた時、私たちは皆『白人至上主義』という毒を飲むのです」と。それはどういうことか。白人はまず「人種差別」を生まれながらに持っているということであり、それに気づくことはまずないという意味でしょう。つまり、「みんながそうしているんだから」「自分も同じことをしているだけ」「同じ空気を吸っている」というのです。「それが差別である」と意識(自覚)されない世界に自分が生きているということになります。自分とは別個の視点がなければどうにもなりません。情けないけど、事情は少しも変わらないままで「差別」の仕方が露骨になってきています。「(黒人差別への)抗議デモ参加者は暴力集団、ファシスト」とならず者呼ばわりを、あろうことかプレジデントがしているし、それを熱狂して支持する多くの白人たちがいるのです。つい最近、「赤狩り」があったばかりの国です。どこまで「狩り」をつづけるのか。

 「飲むのは毒」ですから、吐き出したり、のどに違和感を覚えたりする人がいそうなものですが、「白人」はおおむね、その毒に対して抗体(免疫)があるから、痛痒を感じないのです。「私は今、学び、そして、人生で”教えられてきたこと”を脱ぎ捨てる過程にいます」という彼女の、この自覚というか、自意識はきわめて大事です。自分の中に差別感覚がある、差別意識を持っているという自覚が働かなければ、「人権を尊重しましょう」は、単に「信号を守りましょう」という、ルール順守に堕するのは避けられません。親や教師に言われたから「人権を守る」という問題にすり替えられてしまっている。もちろん、いわれないから「差別する」という理屈です。ここに「判断する力」が働いていません。彼女の意識がどこまで達しているかを、われわれは知るべきです。

 なぜ「白人至上主義」はダメなのか、許されないのか。ちょっとばかり考えても答えは出てきません。ちょっと考えるというのは、まったく考えないということと同じですから、アメリカ社会ではこの問題はつねに存在し続けるのでしょう。黒人が差別されるのは当然だろうよ、とまで言わないが、現状では「仕方がない」「差別される側に非がある」、そう考えている人間が多くいるということの証明です。

 ひるがえって、この島社会ではどうか。事情は同じです。差別や偏見で充満している、そのように感じていたから、無力を省みずに、ぼくは何十年もそのことを訴えても来ました。たいへんに誤解されそうな言い方ですが、「誰も差別しないようになったら、俺一人で差別するよ」と嘯いてもいました。そんな世の中にはなるはずがないということの確信から出た暴言でした。現状はどうですか。コロナ感染者への誹謗や中傷、ネット上での罵詈雑言、セクハラ、パワハラ、DV、虐待等々、裸足で逃げ出したくなるほどに、この狭い島では偏見や差別が蠢いています。Human Lives Matter と叫んで、あれっ、彼や彼女は人間じゃなかったのかと気付く。この頽廃の極北。

 ではどうするか。答えはないとは言い切りませんが、ぼくが絶望しているのは事実です。社会的・政治的には何らかの手段すらない。懸命におのれを磨いて、すこしでも他者に対して、他者であるがゆえに敬意を示す、あるいは尊敬心を以てまじわる、このようにささやかな行為を重ねるしかないように、ぼくには思えてきます。千里の道も一里から。いわば、進退窮まりながらの歩行です。あるいは難行道というのでしょうか。ガガさんの言うとおり、「人生で教えられてきたことを脱ぎ捨てる」ということです。とするなら、なんとも「学校教育は罪作り」ということになりませんか。

 余話です。日本の現行刑法に「人を殺してはいけない」という条項はありません。なぜですか。そんな狂気じみたことを人がするはずはないという人間高徳論からではありません。また条項を設けたところで殺人は必ず起こるのだから、そんな無駄なことはしないでおこうというのでしょうか。ぼくは法の専門家ではありませんからわかりませんが、書いてないからと実行に及んだら、死刑または無期、または懲役何年という可罰主義を取っています。要するに法理論の当然の建前なのでしょう。

 殺人行為は究極の「人権侵害」ですが、殺人事件がなくならないのと同様に「人権侵害」もなくなりはしないでしょう。だから、そうしてはいけないというのではなく、(ここに飛躍があります)すべからく人間として生きている以上は、そういう非(反)人間的な行為を犯さない、まともな感覚を持った人間でありたいという、人間尊重主義が個々人の深部にあるようにぼくは見ています。いまだ自覚されていないかもしれないが、あるとしたい。それは法律を越えた「人間の基礎付け」(Human Conditions)のようなものでではないでしょうか。法治論(主義)ではなく、道徳の問題です。「人生で教えられてきたことを脱ぎ捨てる」ちからは、その人に備わっているに違いないのです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)