「枠からはみ出してはいけない」か

色塗りに没頭することでストレス解消になるという指摘もあるが PATRICK PLEULーPICTURE ALLIANCE/GETTY IMAGES
社会の「枠」をはみ出すな──塗り絵に潜む服従のメッセージ A Dark, Forgotten History 2020年09月16日(水)18時20分 エマニュエル・ルリ(News Week Japan)
 
<コロナ禍でブームの塗り絵の歴史をひもとくと自由な芸術表現とは正反対の不都合な真実が浮かび上がる>
 コロナ禍で巣ごもり生活が続くなか、私の心を癒やしてくれたのは塗り絵だった。ウサギの笑顔を輝かせ、人通りの消えたサンノゼの街並みをよみがえらせ、エッフェル塔のイルミネーションを光らせる──。塗り絵のおかげで人との交流や旅への希望を感じ、この壊れた世界を元通りの姿に戻せる気がしてくる。たとえそれが、紙の上の、その場限りの楽しみだとしても。
 私だけではでない。ニューヨーク・タイムズ紙は4月、塗り絵には不安を軽くする効果があると報じた(ぺンを「往復させる動作を繰り返すことで、日常のストレスを一時的に忘れられる」という解説を、私は何度も自分に言い聞かせた)。インスタグラムではおしゃれな人々が自粛生活の今は大人にも塗り絵が最高とアピールし、ネットには無料の下絵があふれている。
 社会の「枠」をはみ出すな
 きっかけは、塗り絵アプリの派手な広告が何日も表示されていたことだった。アプリをインストールして白黒の下絵を眺めるうちに、絵筆や消しゴム、絵の具のアイコンに手が伸びた。画面を指で拡大して色を塗り、枠からはみ出した部分を必死で消す作業に夢中になった。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2020/09/post-449.php)
19世紀の塗り絵には子供への教訓が詰め込まれていた GEORGE MARKS/GETTY IMAGES

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 不思議なことのようですが、ぼくには「塗り絵」に魅かれた痕跡も記憶もありません。まったく塗り絵をしなかったのかどうか、定かではありませんが、端から「トレース(trace)」することが嫌いだったことは確かです。今でもありますか、漢字の練習であらかじめ点線で書いてある上を「なぞり」ながら覚えるという帳面、見るだけでも気分が悪くなったほどでした。同じことになるのかどうか、「前にならえ!」「右向け右!」というのも死ぬほど嫌だった。号令をかけられること自体、胸糞が悪かったな、小学校入学以来です。協調性は皆無と自己判断していたし、他人からもそのように判断されていました。だが、模倣(imitation)はそれ(なぞる)とは違う、模倣にはいくらか自分流の余地が残されています。今でも悪い思い出として残っているのが「行列」や「行進」です。これも嫌でした。後年になって、もし軍隊というものがあり、入隊しなければならないとしたら、毎日のようにぼくは殴られていただろう。そんな夢を何度もみました。ある時(四十をとっくに過ぎていました)、電車の切符を買うので並んでいたら、後ろの怖いおっさんに「おまえ、ちゃんと並べ」と睨まれました。自分では並んでいたつもりでしたが、言われて気が付いた。ぼくだけが列から一歩脇にはみ出ていたので、おっさんは並びづらかったのです。

塗り絵帳の第1号といわれる『リトル・フォークス ペインティング・ブック』(☜)は、朝寝坊や身勝手な行動を戒める歌や物語の絵に色を付けるという内容だった。なかでも象徴的なのが巻末の物語だ。/ 退屈な田舎生活から逃れたいと願う兄妹が魔法のじゅうたんに出合って旅に出るが、二度と家に帰れないという悲惨な物語で、「不満を持つな。手に入らないものを欲しがるな」という警告が付いている。まさに「枠からはみ出してはいけない」という塗り絵の神髄を体現しているようだ。(中略)色を塗るとは、他人が設計した世界で暮らし、既存の仕組みを暗記する以外に選択肢のない環境で生きるということなのだ。でも私は、コロナ禍で押し付けられた狭い世界がどんな感覚かを、わざわざ思い知らされたくはない。(同記事)

 ここまで来て、ぼくは学校教育の最悪の習慣にいまさらのように気付いたのです。それはあらかじめ「支配者が構築した世界を受け入れ、さらにそれを喜んで守るために塗り絵の活用(を)」(ルリ・同上)させる習慣を子どもに強要することです。学校(教育)の敷地内では、ほとんどすべてが塗り絵(なぞるだけ)の世界です。そこには「独創」も「我流」も許さない、例外は一切認めないという教条主義の塊だけが幅を利かせているのです。子どもに認められる許容範囲は「トレース」のみ、これではいかにも窒息するに違いありません。「まるで空気を通さないマスク」を強いられているようではありませんか。ぼくは学校や教師に不信の念しか持たなかったことを隠してきませんでした。もし気を許していたら、軍隊のビンタどころか、即死だったろうと今でも考えているのです。

 「既存の世界を甘受するのではなく、今ある資源を守りながら新たな世界をつくり上げる。それこそ、真の意味での芸術表現なのだから。」(同上)人生(生きるということ・art of life)は紛れもなくかけがえのない、一回限りの自作自演の創造行為(creative activity)です。お手本はあっていいけれど、誰かの生き方をを、その通りになぞらない、そんなことはできるはずもないのですから。せいぜい、我流でもかまわない生き方をしたいものです。笛を吹いて命令通りにさせる(いうことを聞かせる)という根性が、根本でまちがっている。人を尊重しないという一点で。「一糸乱れず」というけれど、ひとりひとりは「個人」であって、束になるための「一糸」なんかではない。個人( individual)は分けられない(individe)んですね。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)