回向の主は死者、不正は死者が裁く

あいつぐ異常気象・疫病・飢饉・大地震、そして承久の乱。荒廃する国土をもたらしたのは、正法が廃れ、邪法=専修念仏がはびこる仏教界の混迷である。日蓮は、社会の安穏実現をめざし、具体的な改善策を「勘文」として鎌倉幕府に提出したのが『立正安国論』である。国家主義と結びついてきた問題の書を虚心坦懐に読み、「先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし」の真意を探る。 (右書物の記述より ⇒)

 記者の目:上原専禄さんが現代に問うもの=田原由紀雄(専門編集委員)

 ◇生命蔑視の風潮、先駆的に告発

 60年安保闘争では反安保の学者・文化人グループの支柱として活躍したが、突然、姿を消し、75年に亡くなった後3年8カ月もその事実が世間に知られなかった歴史学者、上原専禄(せんろく)さん(1899年生まれ)。その「死者との共生・共闘」という特異な思想が没後35年という歳月を経て注目されている。多数の生死・居所不明高齢者がいることが発覚するなど死者を軽んじる風潮が目につく今日、透徹したまなざしで日本社会の病根を見つめ続けたこの学者に学ぶべきものは少なくないと思う。

 ◇妻の死きっかけ 独創的日蓮解釈

 西洋中世史家の上原さんは学長まで務めた一橋大学を60年に退職。71年親しい編集者以外には行き先を告げずに東京を離れ消息を絶った。翌年に京都府宇治市内に家を建てて長女と2人で隠れ住み、75年10月に76歳でひっそりと逝った。私は三十数年前、駆け出しの宗教記者として東本願寺紛争の取材中に上原さんが同寺の改革運動に共鳴していることを知って、その講演録を読み、強い衝撃を受けた。捜し出して会おうと思ったが果たせなかった。

 京都の日蓮宗の寺の檀家(だんか)に生まれた上原さんが日蓮の遺文や法華経を新しい視点で読み込み、独自の死者観に到達するきっかけは69年に妻利子さんをがんで亡くしたことだ。上原さんは次のように考えた。利子さんの死は医師の怠慢、無責任、患者よりも利益追求を優先する医療などが重なった結果であって、単なる病死ではなく、人為的に、社会的に「殺された」のだ、と。利子さんの死の翌年に行った講演で次のように述べる。

 「今日の日本社会においては、単純素朴な死というものはありえないのではないか。人びとは、正義によわい社会の仕組み、その中に生きる正義によわい人びとの邪心によって殺されていっているんではないのか。それと同時に、その殺す作業に私が参与しているということがありはしないか」

 上原さんは利子さんの死を見つめることを出発点として公害など日本の社会にはびこる「生命の蔑視(べっし)」の現実をえぐり出し、鋭く告発するとともに、死者を欠落させた時代思想を根底から批判していく。

 ◇「死者と共闘」 生者の責任説く

 日蓮宗の場合、一般的にいえば題目を唱え、お経をあげ、回向と呼ばれる営みをすることで、迷っている死者の霊を成仏させることができる、とされているが、上原さんはそうした回向のあり方も否定して「回向の主体は死者」「社会的不正は死者が裁く」「生者は死者と連帯し、共闘し、死者のメディアとなってこの世で審判の実をあげなければならない」という独創的な思想、日蓮解釈を打ち出すに至る。連帯する死者はアウシュビッツの虐殺で亡くなった人々らにも及ぶのである。

 上原さんの死後、宇治の家には長女弘江さんが1人住まいし、05年3月に亡くなるまで父の著作集の編集に打ち込んだ。宇治支局長時代に弘江さんと知り合い、親しい交際のあった滝沢岩雄・元毎日新聞論説委員によると、父娘は生前、宇治の家を「闘う拠点」と呼んでいた。姿を消す前、上原さんは「妻の回向三昧(ざんまい)に生きる」ともらしていたが、著述という形で死者との共闘を続けていたわけだ。そして、弘江さんによる著作集編集も死者との共闘だった。

 最近、上原さんの思想に関心が高まっている。仏教学者の末木文美士(ふみひこ)・国際日本文化研究センター教授は、新著「他者・死者たちの近代」の中で、上原さんの思想を「最も深いところからの近代批判」と高く評価している。ある評論家も対談で上原さんによる歴史学の再構築、死者との連帯に触れていた。

 上原さんが見直される背景には、近代合理主義思想の行き詰まり、さらには生者を優先し、死者を排除する方向で進んできた日本社会の精神的な荒廃が顕著に顕在化してきたことがあると見てよいだろう。「単純素朴な死というものはありえない」というのは極論だが、毎年3万人を超える人が自殺し、父や母の死を隠し、遺体を放置する事件も相次ぐ現代日本の社会状況を予見していたようにも思える。末木教授が指摘するように上原さんの死者論は「時代に先駆けすぎていたために、正当に評価されることなく、埋もれていた」に違いない。(← 千葉天津小湊・誕生寺)

 上原さんは日蓮に帰依したまれな知識人だった。その厳しい生き方はだれにもまねはできない。だが、死者と向き合った真摯(しんし)な姿勢や深い思索はこれからの葬送や現代社会の中での生者と死者の関係を考えていくうえで大きな手がかりになるのではないか。(毎日新聞 2010年10月26日)

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● 上原専禄(1899―1975)歴史学者,思想家。京都に生まれる。東京商科大学一橋大学。1923年−1926年ウィーン大学で厳密な史料批判に基づいた中世史研究を学ぶ。1939年東京商科大教授,1946年一橋大学長となる(1949年まで)。第2次大戦の経験を重く受け止め,歴史教育や歴史学の根本的反省と主体性の確立を訴え,日教組が創設した国民教育研究所などに深くかかわる一方,アジア・アフリカ問題に関心を向けていった。しかし安保闘争後の革新政党や労働組合・知識人のあり方に疑問と失望を抱いてからは全ての公職を辞し,幼少時から親しんでいた日蓮の研究に没頭。妻の死(1969年)後は,死者との共闘を通した新しい世界史認識を追究するようになった。《上原専禄著作集》全28巻がある。(百科事典マイペディアの解説)

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 掲載当時の読み方とはまた異なった思いでこの記事を読んでいます。上原さんはぼくには「懐かしい人」というよりは「強靭な人」という印象が強くありましたし、今なおその感が深い。もちろん、ぼくは西洋中世史の研究をしたことはない。せいぜい興味をそそられた人の書籍を眺める程度で終わっています。偶然ですが、一橋大の後輩である阿部勤也氏などのものを数冊読んだくらいです。上原さんのものも、60年代以降の社会的・政治的発言を記録した評論などが主たる対象でした。しかし、それでも、当時においても古いと思われる教養主義に、ぼくは飢えていたのかもしれません。

 何年もの空白期間があった後、上原さんの死が報道されて驚いたことを記憶しています。日蓮研究というか、あるいは日蓮に帰依していたのか、いずれにしてもその晩年の履歴にぼくは心を打たれたのでした。「記者の目」という記事に遭遇して、改めて上原さんの生きる流儀とでもいうものにぼくは関心を寄せてしまいました。ぼくの貧相な書庫にも上原さんの数冊の書籍が並んでいます。未整理で、足の踏み場もないのですが、近々、掃除を兼ねて彼に再会してみたいと思いながら、この雑文を書いています。「生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)」ですね。

 無謀にも日蓮の『立正安国論』を読んだことがあります。それだけの話で、内容はどこかに消えてしまいました。また彼の所縁の地である小湊の誕生寺には何度か赴いたことがあります。近くに鯛の浦という景勝地もあります。交差点が「日蓮交差点」だったか。

 今は日蓮を偲び、上原さんに思いを及ぼそうという魂胆でもないのですが、安房鴨川近くの小湊出身のマスターが経営している寿司屋さんにほぼ毎週通って、しらふ(素面)(酒類なし)で、連れ合い(かみさん)と寿司をいただいています。房総の地は山も海もあって食べ物(山の幸・海の幸)に恵まれています。酒飲みの時代っだら、はたしてどうなっていたろうなどど、不謹慎なことを思いながら、お茶を傍らにおいて肴に舌鼓を打っています。

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