優劣を気にする隙がない教室を 

 教育は一人一人を育てるということ

 ものにはいろいろな「学び方」があります。ここでいう「学び方」とは子どもの側の方法(姿勢)であり、それを教師の側からいえば、「育て方」(教育方法)となるでしょう。教師が育てたい子どものある力を育て、生徒はそれを自分の力で学ぼうとする、そこに阿吽の呼吸というか、与える・与えられるという一瞬の果たし合いが成立するのです。だから、学ぶものの内容に応じた「学び方(育て方)」があると言った方がいいかも知れない。 

 でも、どんな場合にも子ども自身が「自ら学ぶ」という経験をすることが大切ではないか。ほんとうに何かを「学んだ」あかしは、自分が変わるということで明らかになります。わがままが思いやりの心を育て、意地悪が意地悪でなくなる。飽きっぽい者が注意力を育てる、嘘つきが正直になる。このように変わることが、ものを学んだ成果なのだと、ぼくは経験してきました。だれのためではなく、自分のために「学ぶ」。そのための練習が〈授業〉というものではないか。だから、そのような〈授業〉を作ることこそが、教師といわれる人の務めじゃないか。そんなことばかりを長年にわたりぼくは夢見てきました。

 では子どもは自分から学びたいもの(興味・関心)をもっているのか。そうであるともいえますが、そうではないともいえます。子どもの興味というものはあるようでいて、当人にも明確ではないのがほとんどです。ここに、教師の出番というか仕事があるのだと思われます。なにを「学ばせるか」、どんな力を「育てるか」、という目当ての把握です。(イムジチ合奏団 ☞)

 「子どもと一緒にいる教師なら、子どもがどんなことを話しているかとか、そういうことからみなさんお察しになるかと思いますが、それにも限度があります。そういう捉え方はだれもが長くやってきたことですけれども、しかし、その他にこういうことに興味を持つべきだということ、持たせたいということが、教師の方にはっきりしていないと指導ができません。子どもの興味を大切にしない教師は、もちろんいないと思います。こういうものに興味を持つべきなんだ、考えるべきなんだということを、押しつけないことはもちろんですが、何も指導しないということではないと思います。適当なヒントを適切に出して、方向をつけていかなければ、何も教えていない、指導していないことになります。ほんとうは教師が与えているのに、子どもからみると、まるで自分が発見したような感じであるようにしたいのです。自分のやりたいことが、ちょうど教師のさせたいことであったという調子になるわけです。押しつけられたとか、教師が言うからとかの感じでないようにリードしていくことを、嫌いなことばですが、『導入』と言っています」(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』)

 教師は教える人であり、子どもを育てる人であるというけれど、ほんとうにそうかどうか。すこしは疑ってもいいのではないか。教えるとはどういうことか。その解答は意外にめんどうです。あることを知らない子どもに、なにかを教えるといいます。よくよく考えてみれば、それは「(答を)与える」ことをさして、教えるといっている場合がほとんどです。算数や社会や国語の問題の答を教師は知っているからです。別のいい方をすれば、それは教えてもいなければ、育ててもいない。教師自身が自分を育てようとする心がけがないと、どうしても与えるばかりになってしまう。その方が楽であるし、子どもからもありがたがられるからです。なぜなら、子どもも教えられた気がしますから。

 教師には何が求められているか

 若い人たちとつきあいを重ねて半世紀が過ぎました。いまは後ろに下がってしまいましたが、それでも時を経るにしたがって、「教職」の難しさを痛感しています。教師になりたいという奇特な若者に出逢い、「いい教師」になってほしいと願わざるを得ませんでした。その気持ちは今も変わらない。たいていは子どもが好きで、小学校や中学校で習った・教えてもらった「先生」のようになりたという希望を熱心に語ります。教育に向かう情熱や真心が必要ではないというのではありませんが、それだけでは足りないといわなければなりません。

 「熱心と愛情とそれだけでやれるということは、教育の世界にはないんです。子どもがかわいいとか、よく育てたいとか、そんなことは大人がみんな思っていることで、何も教員の特権ではないと思います」と大村さんは言う。 資格を取れば教師になれるのではありません。教師になるための闘いは日夜つづく。まるで際限がないのです。

 「とにかく、子どもが一生懸命に勉強していないようすを見て、あの子はどうもなんて、平気で見ていられる先生は教師に適さないんじゃないかと思います。教室で、私は子どもをかわいいなんて思ったことはない。もちろん、かわいくないと思ったこともありません。かわいいとか、かわいくないとかの世界ではないのです。教えることが忙しくて、そんなことを思っている暇がありません。あの子にこれを、あの子にこれをと手をとらなければならないことがいっぱいで、ほかのことを考えるひまがありません」(同上)

 「無我夢中」、それが「教える人」であった大村さんの真骨頂だったと思う。「教える」の深さにも限界はない。

 聞く・話す・読む・書く、この基本中の基本の能力をなによりも養う・育てる。たんに「~なさい」というのではなく、ほんとうに教えることに徹する。「よく考える」「話を聞く」とはどんなことかを身にしみて子どもが分かるところまで進む。

 「専門職教師の私のいる教室で、もし子どもが自分を情けなく思っていたり、自分はだめな子だなあと思って悲しく思ったりしているとしたら、それはほんとに私の責任です。本人は自分にちょうどよく与えられた教材で夢中になって勉強していて自分がどんなに能力的に劣っているのかなんてことを気にする隙がないくらいに、やっていくところを私は理想にしてやってきたのです」(同上)

************************************************

 あまりいい比喩ではありませんから、いささか気が引けるのですが、教室における授業は「オーケストラの演奏」だといってきました。メンバーはたくさんいます、それぞれの楽器はすべて音色も音程も素材も異なる、だからこそ合奏がうまくいくと妙なる調べが生まれてくるのです。さしずめ教師は「指揮者」です。楽器の特色を知り尽くそうとしなければならないし、時間をかけて音楽(楽曲)を作り上げていく根気が不可欠です。ぼくはよく、楽団のリハーサルを聴いたものです。指揮者はまず耳がよくなければ話にならない。もちろん、さまざまなタイプの指揮者がいます。独裁的だったり融和的だったり。結局は楽団全体が奏でる雰囲気が楽しいものでなければ、それを聞いていても楽しくないでしょう。陳腐な例ではありますが、教師は指揮者だというだけで、幾分かはその仕事の雰囲気が受け止められるのではないでしょうか。なかなか深いですよ。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。