人生はどこで変わるかわからない

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(ニッポン人脈記)自転車でいこうよ:4 (註 高田渡さんではありません、念のため)

 ■財布カラだが任せとけ

 人生はどこで変わるかわからない。堀田健一(ほったけんいち、69)はつくづくそう思う。

34年前の1979年といえば、アメリカ・スリーマイル島で原発の放射能漏れ事故が起きた年。ちまたには「いとしのエリー」「関白宣言」といったヒット曲が流れていた。

 東京は荒川区で梱包(こんぽう)運送業を営んでいた堀田はその頃、小2の次男に三輪車をつくってやった。学校から「低学年は危ないから自転車禁止」というお触れが出て、「じゃあ三輪ならいいだろう」と。昔からモノをつくるのが大好きで、工業高校を出て自動車メーカーに勤めたこともある。普通の三輪車じゃ面白くないと、ペダルはミシンのように足を踏み込んで進む形を考えた。

 近所の子が行列をつくって遊ぶ様子を、近くに住む中年の女性が見かけた。ずっと片方の足が不自由で、買い物一つにも苦労する。足を回さなくていいなら、ひょっとしたら私も……。貸してもらって踏み出すと、ちゃんと前に進んだ。

 「生まれて初めて自転車に乗れた。お願い、私にもつくってください」

 助けになれるのがうれしくて、仕事が終わってからの時間を使い、2カ月かけて大人用を一からつくった。評判は広がった。

 ある日、出先から帰ると、松葉杖をついた若い男性が立っている。「自分の力で生活できる乗り物が欲しいんです。どうか……」。次の日も、また次の日も障害がある人が訪れた。来訪者はひと月で20人を数えた。  

 「この人たちに応えたい」。一本気なのは子どものころからだ。妻の和子(かずこ、70)が反対する間もなく商売道具のトラックを売り払い、駐車場にテントを張って作業場にしてしまった。

 36歳の9月、「堀田製作所」の始まりだった。

 製品は、1台1台、依頼者の状態を考えてつくった。車輪、チェーンといった一部の規格品を除くと、部品もほとんど自分でつくる。夫婦で日がな一日働いても、1台仕上げるのに数カ月かかった。

 それでも、高い値段をふっかけるようなことはしたくなかった。標準型の三輪車につけた値段は7万円。当然採算はとれず、家計は苦しい。そのうち、子どもの給食費さえ困るようになってきた。

 「廃業するしかないか」。そんな風に思うようになっていた4年目の春。タンチョウの生息地で知られる北海道の鶴居村の男性から、一人っ子の小4の息子のために1台つくってほしいと声がかかった。小児まひを患い、片足が不自由になったという。

 依頼者には必ず工場に来てもらい、この目で様子を確かめてから請け負うのが堀田の流儀だ。そうでないと責任ある仕事はできない。

 聞けば、その父親は土木会社を営み、毎日てんてこまいの忙しさだという。母親も会社の事務を切り盛りし、どうしても休めない。「子どもを1人でうかがわせます。こんな親ですみません……」

 堀田は羽田空港まで迎えに行った。飛行機が到着し、乗客がロビーにあふれる。しかし、手荷物を受け取った人波が消え、ロビーが空っぽになっても、それらしい子どもは見当たらなかった。

 「だまされたのか」。そう思い始めたころ、大きな荷物を背負った男の子の姿が見えた。足をひきずり、少しずつ前に進んでいる。

 「大変だったな、よく来たな」。声をかけた堀田の顔を見て、男の子は、はにかんだような、何とも言えない表情をみせた。

 堀田は、疑った自分を恥じた。男の子を1週間自宅に泊め、仕事の合間には東京タワーへ連れていった。

 まだめぐり合っていないだけで、こんな子たちがきっといっぱいいる。やめるなんて言えるか。

 堀田はその後、男の子の成長に合わせ、大学卒業まで5台の自転車をつくった。

 それにしても、お金がない。今晩のご飯はどうしようと財布をのぞくと、100円玉もないのだ。

 次回、なお続く堀田夫妻の苦闘と光明を。(但見暢)(朝日新聞・13/02/28)(https://hotta-ss.com/)

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 七年以上も前の記事です。こんな記事に出会えたら、それが月にたったの一本であったとしても、ぼくは新聞を取っていてよかったと思ったものです。もっとも、これ(引用したもの)はネット上のものを保存しておいたものですが。昔から、ぼくはものを貯める癖がありました。新聞の切り抜きもそうです。今でもたくさんの山が残されています。この堀田さんのような会社というか町工場、そんな会社ばかりをスクラップしていた時代もありました。その会社が現在どうなっているか、とても気になるのですが、堀田製作所もその一つでした。今なお健在というか、意気軒高というほどに「自転車づくり」に邁進しておられます。「工場が学校」でした、と堀田さんは言うかも。

 いずれはこんな見事な姿勢を一貫してきた町工場や小企業を綴ってみたいと考えたりします。先ず第一番に、堀田さんの所です。朝日新聞「なお続く堀田夫妻の苦闘と光明を」も記載する予定です。大きな会社はそれなりのメリットもあるのでしょうが、振舞いやこころざしという点では小企業や町工場に劣るのは仕方ありません。社長を含めて社員はすべて「サラリーマン」であるのが大企業です。ぼくにも小さな工場や商店経営者の友達がたくさんいます。苦労や算段(やりくり)は知るすべもありませんが、人情や気概には感じ入るほどのものがあります。そんな人たちの生活の流儀とでもいう所作・振舞いを述べてみたいですね。(ゆっくりですけど)(大学を出なければいけない仕事もありますけれど、大学出では間に合わない仕事もありますね)

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 優劣を気にする隙がない教室を 

 教育は一人一人を育てるということ

 ものにはいろいろな「学び方」があります。ここでいう「学び方」とは子どもの側の方法(姿勢)であり、それを教師の側からいえば、「育て方」(教育方法)となるでしょう。教師が育てたい子どものある力を育て、生徒はそれを自分の力で学ぼうとする、そこに阿吽の呼吸というか、与える・与えられるという一瞬の果たし合いが成立するのです。だから、学ぶものの内容に応じた「学び方(育て方)」があると言った方がいいかも知れない。 

 でも、どんな場合にも子ども自身が「自ら学ぶ」という経験をすることが大切ではないか。ほんとうに何かを「学んだ」あかしは、自分が変わるということで明らかになります。わがままが思いやりの心を育て、意地悪が意地悪でなくなる。飽きっぽい者が注意力を育てる、嘘つきが正直になる。このように変わることが、ものを学んだ成果なのだと、ぼくは経験してきました。だれのためではなく、自分のために「学ぶ」。そのための練習が〈授業〉というものではないか。だから、そのような〈授業〉を作ることこそが、教師といわれる人の務めじゃないか。そんなことばかりを長年にわたりぼくは夢見てきました。

 では子どもは自分から学びたいもの(興味・関心)をもっているのか。そうであるともいえますが、そうではないともいえます。子どもの興味というものはあるようでいて、当人にも明確ではないのがほとんどです。ここに、教師の出番というか仕事があるのだと思われます。なにを「学ばせるか」、どんな力を「育てるか」、という目当ての把握です。(イムジチ合奏団 ☞)

 「子どもと一緒にいる教師なら、子どもがどんなことを話しているかとか、そういうことからみなさんお察しになるかと思いますが、それにも限度があります。そういう捉え方はだれもが長くやってきたことですけれども、しかし、その他にこういうことに興味を持つべきだということ、持たせたいということが、教師の方にはっきりしていないと指導ができません。子どもの興味を大切にしない教師は、もちろんいないと思います。こういうものに興味を持つべきなんだ、考えるべきなんだということを、押しつけないことはもちろんですが、何も指導しないということではないと思います。適当なヒントを適切に出して、方向をつけていかなければ、何も教えていない、指導していないことになります。ほんとうは教師が与えているのに、子どもからみると、まるで自分が発見したような感じであるようにしたいのです。自分のやりたいことが、ちょうど教師のさせたいことであったという調子になるわけです。押しつけられたとか、教師が言うからとかの感じでないようにリードしていくことを、嫌いなことばですが、『導入』と言っています」(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』)

 教師は教える人であり、子どもを育てる人であるというけれど、ほんとうにそうかどうか。すこしは疑ってもいいのではないか。教えるとはどういうことか。その解答は意外にめんどうです。あることを知らない子どもに、なにかを教えるといいます。よくよく考えてみれば、それは「(答を)与える」ことをさして、教えるといっている場合がほとんどです。算数や社会や国語の問題の答を教師は知っているからです。別のいい方をすれば、それは教えてもいなければ、育ててもいない。教師自身が自分を育てようとする心がけがないと、どうしても与えるばかりになってしまう。その方が楽であるし、子どもからもありがたがられるからです。なぜなら、子どもも教えられた気がしますから。

 教師には何が求められているか

 若い人たちとつきあいを重ねて半世紀が過ぎました。いまは後ろに下がってしまいましたが、それでも時を経るにしたがって、「教職」の難しさを痛感しています。教師になりたいという奇特な若者に出逢い、「いい教師」になってほしいと願わざるを得ませんでした。その気持ちは今も変わらない。たいていは子どもが好きで、小学校や中学校で習った・教えてもらった「先生」のようになりたという希望を熱心に語ります。教育に向かう情熱や真心が必要ではないというのではありませんが、それだけでは足りないといわなければなりません。

 「熱心と愛情とそれだけでやれるということは、教育の世界にはないんです。子どもがかわいいとか、よく育てたいとか、そんなことは大人がみんな思っていることで、何も教員の特権ではないと思います」と大村さんは言う。 資格を取れば教師になれるのではありません。教師になるための闘いは日夜つづく。まるで際限がないのです。

 「とにかく、子どもが一生懸命に勉強していないようすを見て、あの子はどうもなんて、平気で見ていられる先生は教師に適さないんじゃないかと思います。教室で、私は子どもをかわいいなんて思ったことはない。もちろん、かわいくないと思ったこともありません。かわいいとか、かわいくないとかの世界ではないのです。教えることが忙しくて、そんなことを思っている暇がありません。あの子にこれを、あの子にこれをと手をとらなければならないことがいっぱいで、ほかのことを考えるひまがありません」(同上)

 「無我夢中」、それが「教える人」であった大村さんの真骨頂だったと思う。「教える」の深さにも限界はない。

 聞く・話す・読む・書く、この基本中の基本の能力をなによりも養う・育てる。たんに「~なさい」というのではなく、ほんとうに教えることに徹する。「よく考える」「話を聞く」とはどんなことかを身にしみて子どもが分かるところまで進む。

 「専門職教師の私のいる教室で、もし子どもが自分を情けなく思っていたり、自分はだめな子だなあと思って悲しく思ったりしているとしたら、それはほんとに私の責任です。本人は自分にちょうどよく与えられた教材で夢中になって勉強していて自分がどんなに能力的に劣っているのかなんてことを気にする隙がないくらいに、やっていくところを私は理想にしてやってきたのです」(同上)

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 あまりいい比喩ではありませんから、いささか気が引けるのですが、教室における授業は「オーケストラの演奏」だといってきました。メンバーはたくさんいます、それぞれの楽器はすべて音色も音程も素材も異なる、だからこそ合奏がうまくいくと妙なる調べが生まれてくるのです。さしずめ教師は「指揮者」です。楽器の特色を知り尽くそうとしなければならないし、時間をかけて音楽(楽曲)を作り上げていく根気が不可欠です。ぼくはよく、楽団のリハーサルを聴いたものです。指揮者はまず耳がよくなければ話にならない。もちろん、さまざまなタイプの指揮者がいます。独裁的だったり融和的だったり。結局は楽団全体が奏でる雰囲気が楽しいものでなければ、それを聞いていても楽しくないでしょう。陳腐な例ではありますが、教師は指揮者だというだけで、幾分かはその仕事の雰囲気が受け止められるのではないでしょうか。なかなか深いですよ。

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