寛大なる、利己的でない尊い感情

 コミュニケーションが不足するというのは、悪いことばかりではありません。脳細胞を刺激してくれる。例えばということで、次のミスコミだか、ディスコミをどう読まれますか。行き違いがあってこその付き合いでもあります。「理解する」というのは「誤解する」行為の蓄積の結果です。

■ラブストーリーは  最近のお気に入りドラマは、若い男女3人の恋愛模様を描いた「シェアハウスの恋人」だ。母(68)に「このドラマ、面白くてすごく笑えるよ」と話すと、後日、母が言った。「『ケアハウスの恋人』見たよ。面白かった」 (岡山県倉敷市・それじゃ、老いらくの恋・40歳)(「いわせてもらお」朝日新聞・13/04/06)

■自虐ネタ  5歳のめいっ子の保育園は、誰がお迎えに来るか、毎日保育園の連絡ノートに書かなければいけない。「明日は仕事で遅くなるからお迎え頼むわ」という妹(29)に、母(60)は「ほんなら、連絡帳に『おバカ祖母』って書いといて」と答えた。「そんなん書いてもウケへんと思うで」と私が言うと、2人とも不思議そうな顔。そうか、「叔母(つまり私)か祖母」ね! (兵庫県三田市・お迎えは『おバカ叔母』に・32歳)(同上・13.03.16)

 なんのために歴史を学ぶのか(これは何度か引用した文章のようにも思えますが、あえて何度でも)

 《人間の不幸の大部分が天災地変でなく、あるいは何人かの悪い考え、また誤った考えから出ていることは、宗教家でなくてもこれを認めることができる。しかもその誤れる考えはもちろんのこと、いわゆる悪い考えというものでも、さらに今一つ根本に遡(さかのぼ)って見ると、あるいは境遇でありまた行き掛りであった。つまりこれを免(まぬが)れる方法が発見せられぬ間の考えなし、智慧なしまたは物知らずの結果であったことが、しずかに外に立って観察する者には、そう大した骨折りなしに、推論することができるのである。この原因の発見と理解から、ついで起るところの感情は、憎悪ではなくしておそらくは人を憐れむ心、世を憂える心であろうと思う。

 自分らは多くの日本の青年が、この大切なる中学教育の期間に、一度でもこのような寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会を得ずして学校を終え、突然として実施の職業生活に出立(しゅったつ)し、茫々(ぼうぼう)たる浮き世の荒波に揉(も)まれてしまう傾きあることを惜しむ者である。大は国全体のためまた世界のために、小は家庭郷党のために、これはまったく淋しいことであると思う》(柳田国男(「無学と社会悪」)

 この文章は1924年6月、栃木中学校での講演「歴史は何の為に学ぶ」をもとに編まれた「旅行と歴史」という一文にまとめられ、28年4月に『青年と学問』という書名で出版。(現在も岩波文庫で読めます)ここで柳田さんは二十歳前の青年たちを前にして「歴史は何の為に学ぶ」とつよく問うている。多くの人(教師も生徒も)には「たんに治乱興亡の迹(あと)を知って、のちの誡(いましめ)とするという風に教えられた」あるいは上級学校の受験科目だから、ひたすら年代や事項を暗記することが「歴史を学ぶ」理由となっていたのではなかったか。

 愛国心などというものは、このような学習からはまず生まれてこないし、さらにいえば(もう滅んだと油断してはならない)(変質してしまいましたが)、「新しい歴史教科書を作る会」の教科書で学んでも生まれる気づかいはない。「国を愛せよ」という、当の教師自身が「国」というものについてなにを知っているというのか。これは「新しい歴史」教科書を作ろうとしている人びとだって同じですね。「自分にとって、国とは?」(2016年だったかの調査 ⇒)

 《それを自分はこう考えておればよいかと思う。我々がどうしても知らなければならぬ人間の生活、それを本当に理解して行く手段として、人が通ってきた途(みち)を元へ元へと辿(たど)って尋ねるために、この学問は我々に入用なのである。苦いにせよ甘いにせよ、こんな生活になってきたわけが何かあるはずだ。それを知る手段は歴史よりほかにない。つまり現在の日本の社会が、すべて歴史の産物であるゆえに、歴史は我々にとって学ばねばならぬ学科である》(同上)

 すべて「学問は歴史にきわまり候」といったのは荻生徂徠(おぎゅう・そらい)(1666・1728)でした。その意味するところは深くて広いですね。歴史というのは、経験されたことです。自分であれ他人であれ、すでに経験されたことを、ぼくたちは学ぶ、それはなぜか。理由はいろいろでしょう。でも学ぶことには意味があるのです。ある人を知るとは、その人がどのように生きてきたか(どんな考えで、どんなことをしてきたか)を知ることです。これは人でも集団(家、村、町、国)でも同じことです。学ぶというのは、自分流を発見するためです。

 そして、歴史の学び方は多様です。いろいろな学び方をとおして自分流に歴史を知る、それがひとりひとりがかしこくなるということですね。大学入試や卒業条件に英検を課す、道徳を教科にする、あるいは…、公然として、どこかのだれかが策略を練っています。そんなことを企む人々は断じて「かしこくない」と思う。自分たちの意向で他人をいかようにも動かせるという浅知恵は筋の悪い政治屋の仕業だといっておくだけではたりない。「国民錬成」などという悪夢は二度と見たくないものですが、いつそれが現になるかもしれないのです。

 なんのための教育かと問われたら、ぼくはまた柳田さんの文章を紹介するほかありません。一世紀前の青年たちもまた、心許なく、社会に出されていたのです。

 人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶという当たり前の感情を犠牲にしてまで「得ようとしたもの」はなんだったか。「自分らは多くの日本の青年が、この大切なる中学教育の期間に、一度でもこのような寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会を得ずして学校を終え、突然として実施の職業生活に出立(しゅったつ)し、茫々(ぼうぼう)たる浮き世の荒波に揉(も)まれてしまう傾きあることを惜しむ者である。大は国全体のためまた世界のために、小は家庭郷党のために、これはまったく淋しいことであると思う」

 身につまされる。世のため他人のために役にたつ、これがささやかな人間のささやかな幸福であると、ぼくは柳田さんから感化され、今もそうだと考えている。他人より優れていたい、他人に負けたくないというのも人生なら、「憎悪ではなくしておそらくは人を憐れむ心、世を憂える心」をもって生きるのもまた人生です。ぼくがことさらに「かしこい」というのは、このような尊い感情を持てる人の心根を指して言います。そのように「かしこく」ありたい。

 柳田さんにならって、「寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会」それこそが、学校という競争場と化してしまった修羅場に自分を失わないための教育(教室)の実現を願う理由です。一人の教室、あるいは移動する教室、それはたった「一冊の本」ばもたらしてくれるものです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。