至るところに学び舎は存在するのさ

インドの連邦政府直轄地ジャム・カシミールの山上で、青空教室に参加する子どもの手を消毒する教師(2020年7月27日撮影)。(c)Tauseef MUSTAFA / AFP
アンデス山脈のペルー・コナビリの丘の上で遠隔授業を受ける子どもらと、サポートする母親(2020年7月24日撮影)。(c)Carlos MAMANI / AFP
教師に宿題を手渡す子ども(中央)。教師のアーサー・カブラルさん(右)は、インターネットにアクセスできず遠隔授業に参加できない子どもに、自転車で教材を運んでいる。ブラジル・ペルナンブコ州で(2020年7月25日撮影)。(c)Leo Malafaia / AFP

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 コロナ禍の現在、世界各地では多様な教育(学習)の機会を求めるための模索が続いています。学校はどこにでもある、そんな学校(学ぶ場)がいま求められているのです。もっとも肝心なことは、自分の脚で立つように、自分の意欲で学ぶということ。それこそが教育の核心ではないですか。一人で何かをするには助けが必要です。それが教師であったり親であったりするのですが、何よりも学ぶ姿勢を一人の子どもがしっかりと持つ、育てるということです。学ぶ場所はどこにでもある、そこが学校というものです。上に掲げた三枚の写真は、緊急避難状況の特別な学習形態であると、ぼくには思えない。その昔、ぼくたちの先人たちが培っていた成長のあかしでもあるように思います。自然の世界に囲まれて、その恩恵も恐怖や危険もすべて身を持って体験したところから、かけがえのない学習(見習い・聞き覚えから始まる学習)を重ねていったのです。そこで学んだ事柄の最も大切な核心は「注意する(pay attention)」だった。この幾分かを「自然児として」ぼくも経験しました。 

 ものを買うには店に出向かなければならないという時代は長く続きました。でも店はいたるところにできるという状況が各地で生まれています。移動販売、それは今に始まったことではなく、そんなセコイ商売は儲けが薄いからと捨てられていたわけでした。金権亡者の大手コンビニやスーパーまでもが移動してくるのです。学習教室も同様です。コンクリートの冷たい教室に子どもたちは出向かなければ学べないなんて、それは真っ赤な嘘です。だいいち、それはまことに不自由です。いまに至って、このような儲け主義や点取り競争から離脱せざるを得ない・離脱しようとしている多くの人々がいます。生活(消費や学習を含む)の変化が人々の価値観をきっと変えるに違いありません。ものを学ぶという喜びを、ぼくたちはもう一度取り戻そうとしているのです。それは生きる喜びの探求でもあるはずです。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)