流行は容易に中止せず、勢ひ益猖獗

 社説 桐生悠々を偲んで 「西班牙風」と言論の自由  (東京新聞・2020年9月10日 07時13分)

 今年、私たちの暮らしを一変させた新型コロナウイルスの感染拡大。「抵抗の新聞人」として知られる桐生悠々(きりゅうゆうゆう)が筆を執っていた約百年前も「西班牙風」(スペイン風邪)が猛威を振るいました。

 桐生悠々は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知新聞」や長野県の「信濃毎日新聞」などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた言論人です。明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けました。

◆感染拡大で一部休刊に

 スペイン風邪が日本を襲ったのは、第一次世界大戦中の一九一八(大正七)年。内務省統計は日本で約二千三百万人が罹(かか)り、死者約三十八万人と報告しています。/ 大戦末期のシベリア出兵は国内で米価暴騰を引き起こし、七月には集団による抗議行動「米騒動」が始まります。当時の寺内正毅(まさたけ)内閣は政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じました。/ これに激しく反発したのが新愛知主筆だった悠々です。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。

 批判はやがて全国に広がり、九月には寺内内閣が総辞職に追い込まれます。後を継いだのは初の本格的な政党内閣、爵位を持たない「平民宰相」の原敬(はらたかし)でした。/ スペイン風邪の日本での本格的な流行は、この政変とほぼ並行して八月に始まり、第一波のピークを十一月に迎えます。/ この間、新愛知社内でも多くの感染者が出ました。十月下旬に連日、紙面に載った「緊急社告」は新聞製作や編集に携わる社員に多くの感染者が出たため、一部紙面の発行停止を告げています。

 悠々はこの時期、コラム「緩急車(かんきゅうしゃ)」に「西班牙風(スペインかぜ)と米国風(べいこくかぜ)」と題してこう書きます。

◆新聞紙法の圧力と戦う

 「欧州大陸の一端に発源した西班牙風は、戦争の終結を見込んで、今や世界の到(いた)る処(ところ)に其(その)猛威を逞(たくま)しうし、終(つい)に其(その)名を世界風(せかいかぜ)と改むるに至つた」「世界風は実に恐ろしい。政府は直(ただち)に防疫官を各流行地に派遣して、其情況(そのじょうきょう)を視察せしむると同時に、適当なる防疫方法を講ぜしめた。小学校は全部休校して、世界風の感染を防ぎつゝある。而(しか)も其(その)流行は容易に中止せず、勢ひ益猖獗(ますますしょうけつ)(猛威を振るう状態)である」(新字体に、以下同)

 悠々の関心はスペイン風邪の猛威に加え、米国の民主主義にもあったようです。それはコラムのタイトルからもうかがえます。/ 第一次大戦を機に、ロシアでは社会主義革命が起き、ドイツでも帝政が終わり、共和制に移行しつつありました。日本でも社会運動が高まっていた当時です。/ 世界を席巻しつつある民主主義の流れに「抵抗するは愚」としつつ「これを日本的に修正しなければならぬ」と指摘します。立憲君主制の日本に、共和制を敷く米国の民主主義をそのまま導入するのは難しいと考えたのでしょう。

 悠々は当時、言論統制の圧力を高める当局と戦ってもいました。/ 後に、悠々は信濃毎日時代の三三(昭和八)年、「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」と題する論説で信毎を追われますが、新愛知時代にも当局から数々の圧力がありました。/ 大阪朝日新聞の幹部の多くを退社に追い込んだ言論弾圧「白虹(はっこう)事件」も寺内内閣当時のことです。/ 当局が言論取り締まりの根拠としたのが〇九(明治四十二)年に施行された新聞紙法です。

 新愛知は、原首相への政権交代を機に、紙面で「新聞紙法改正の要望 憲政最終の基礎は言論である」として、刑事被告人の擁護や白虹事件に適用された安寧秩序を乱す罪の撤廃を求めるキャンペーンを展開します。/ 「立憲政治は輿論(よろん)政治である。言論政治である」「立憲治下に於(おい)て、輿論若(もし)くは言論を反射し、指導するものは議会と新聞紙であらねばならぬ。議会と新聞紙に現はるゝ言論が官僚の為(ため)に圧迫さるゝのは、取りも直さず憲政其物(そのもの)の破産である」「最も親しく国民に接しつゝある新聞紙に此(この)種の言論の自由を与へないのは…実に不備極まる制度と云(い)はねばならぬ」

◆立憲主義働かず戦争に

 悠々らの訴えむなしく、自由な言論は封じられ、日本は戦争への道を突き進みます。新聞紙法が廃止されたのは戦後でした。/ 言論の自由が封じられ、国民が憲法を通じて権力を律する立憲主義が機能しなければどんな結末になるか、歴史が証明しています。

 きょうは四一(昭和十六)年に亡くなった悠々を偲(しの)ぶ命日です。/ 安倍晋三首相の後継が決まりつつありますが、どんな政権ができようとも、言論の自由のためには戦わねばなりません。悠々の生きざまは、言論や報道に携わる私たちに、その覚悟を問うています。

###############################################

 新内閣(どこが?)が発足し、高い高感度(支持率)で人民は祝杯を挙げ、祝福しているそうです。多くのマスコミが言うのですから、眉にたんと唾つけて、といきたいところです。逢ったこともない人間に、「信頼できるから」「人柄がよさそうだから」と胡麻を擂るのはマスコミか人民か。つまらないから書きたくないが、情報によると、ニューPMは毎月大手マスコミと膝を囲んでだか、抱き合ってだか、食事会なるものを開いてきたという。「ぼくは何でも読んでいるから」というのが決まり(脅し)文句(セリフ)だったとか。まるで「東条」の現代版です。

 権力者の「人物像」なるものを、これでもかと迎合しなければと、読者・視聴者お気に入り用に捏造し、ますます近づきたいというスケベ根性を丸出しにして提灯記事をかく。それをタイマイの金を払って、人民は購読する。消費税増税に際して、再販価格維持を主張して、価格転嫁を阻止するというお家芸を発揮したばかり。大マスコミは国有地を不当な値引きで手に入れて立派な本社屋を所有しているという、まるで不動産屋顔負けの商売をしたけれど、それについては頬かむりを決め込んでいます。「森友」は大新聞社並みのことをさせられただけ。

 百年前の桐生悠々を出して、東京新聞は何を語ろうとしたのか。それは言わないでもわかっているでしょう。個々の記者は「悠々」足らんとしているということを知らしめたいのさ、とはあり得ない話です。もちろん、ここに引いたのは他の新聞社の記事よりも「弊社の記事は権力に阿らない」という気骨を、ぼくは感じないではないからで、他社は語るに落ちるという次第です。こう言っても、この新聞記事にも、何せ浮世の付き合いは粗末にはできない、という卑屈さも見え隠れしているのです。この新聞社の女性記者が新総理になる前の官房長官に、蝮の如く「噛みついて」いました。あれをなんとかしろという「圧」かかったとかかからなかったとか。

 権力者と膝附合わせ、膝を交えて、毎月会食に及ぶというのは、如何にも腐っています。腐ってもマスコミか。マスコミは「第四の権力」というが、まさかマジで四列目に位置する権力(者)だとでも自認しているのかね。マスコミ(新聞)の風上にも置けない、とはこのこと*。

 悠々を偲んでいるだけでは、話にもならぬ。記事にするのではなく、何であれ、新聞人として悠々から奪うものがあるはずです。それを肝に銘じて、記事を書いてください。その昔の、しがない一人の読者として切に願っています。

(《風上に悪臭を発するものがあれば風下では臭くて困るところから》性質や行動の卑劣な者をののしっていう言葉。仲間としてはとうてい扱えぬほど卑劣だ。「男の―◦ないやつ」)(デジタル大辞泉)(左は長い休業が湯づく議事堂)

____________________________________________________

 教育は子どもの成長に対する脅威だ

 いかにも代わり映えのしない駄弁で、いささか辟易している自分が、ここにおります。学校教育の話になると、十年一日のごとく、まことに陳腐な批判が先行してしまうのです。これは、ぼくの非力のせいですが、いっかなよく変わろうとしない学校教育の現状にも一因がありそうです。つまり、学校というのは、けっして子どもの願いや望みを大きく育てるような場ではまったくくないという意味です。教師と生徒の関係を、まず壊さなければ何事も始まらないのですね。あるいは、教室そのものを破壊したくなります。

 「教育こそが、意味のある学習が行われうる条件に対するもっとも直接的な脅威であると思う」(イリイチ)

 今、大人と子どもの状況とは?

  「親父の背中」という形容がありました。父親の背中をみて子どもは育つ、と。いまではそれは「刺したい背中」になったのかもしれない。「見覚える」「聞き覚える」(見習い・自習)という教育の方法が通用しなくなったということで、その分だけ「教えられる」ことによって「学ばせられる」教育が普及したという次第でもあります。はたしてそれはホントに「教・育」として成立しているのかという問題はつねに存在してきました。

 是非善悪は別にして、「文化」の受け渡しといわれるものが細々と成り立っていたのですが、今や世代から世代へのバトンタッチがほぼとぎれてしまった。親から子へ、大人から子どもへと受け継がれるべき「文化」「生活」が失われてしまった。その典型例として、伝来の「子どもの遊び」を考えることができるでしょう。

 「生活・文化」のこのような状況にあっては、大人は大人、子どもは子どもだという区分自体が意味を失わざるをえないと思います(「年齢不問」エイジ・フリー)。それはまた、男は男、女は女という区別をも変質させることになったのです(「性別不問」ジェンダー・フリー)。たぶん、資本主義社会の「進展」は、それ以前に厳然としてあった年齢や性別による区分をあいまいなものにしました。「小さな大人」といったのはアリエスでしたが、加えて「大きな子ども」が誕生した、それが近代(現代)ということになるのでしょう。未熟なままの、不熟世代の拡大産出です。

 「若者文化」とか「熟年文化」といった生活・文化の棲み分け(垣根)が見えなくなった、区別が曖昧になった結果、そこに現れたのは「利便性」「効率性」「快適感」といったコンビニエンス・メリットでした。「大人」社会、ひょっとしてそれは「男」社会であるかもしれませんが、それらが崩壊しているということではないで、それは一つの典型であって、従来型の制度や制度に根づくもろもろの常態が崩壊の一途をたどっているということでしょう。仮にそうだとすると、いったい「教育」~こどもになにかしらの意味や価値、技術や知識を受け渡す(授ける)~というものが、いまなおなりたつのかという、根本の問題に遭遇せざるをえないと、ぼくは考えてしまいます。 

 もちろん、これは一人の大人や一人の教師によって左右される課題ではありません。政治や経済をも含めた、今日の時代状況に見合った課題であるということです。当然のことながら、男社会の原理によってつくり出された「人権文化」も、その根拠・枠組みを揺るがされているということになるはずです。いわば混沌の時代にあるのです。          

  伝達か対話か

 「教える・教えられる」教育が蔓延することによって失われたのは「育つ・育てる」という教育の別の一面でした。しばしば「教えるー学ぶ」というけれども、じっさいは「話すー聞く」ということであったと思うのです。教師は話し、生徒は聞く。「子ども時代」というのは、大人たちの対話の周辺部におかれます。さらに言えば、対話から除外された存在でした。大人の話に首をつっこむな。一人前ではないとして扱われたのです。このことを明確に示すのが教室の風景ではないでしょうか。教師は話し、生徒は聞く(べし)。それは、おしゃべり病の蔓延時代でもありました。

 このような教育(授業)スタイルにおいて、「知識」は一方的に教師から生徒に流されます。これをある人は「銀行型教育」と呼びました。教師は「預金者」で、生徒は「金庫」だというわけです。またそれは一種の「文化的侵略」(洗脳ですね)だともいいました。Aの発言はBやCやDの言葉になり、またそうなることを求められるのです。万人に共通な「知識」が話され、それがそっくり同じものとして万人に受け取られることが要求されるのです。

 二十世紀が科学・技術の時代だといわれたのは理由のないことではなかった。だれもが受けいれることを求められた「知識」、万人に共通の「知識」「技能」が幅をきかしたという意味は、一人一人のかけがえのなさ(経験)を退けたということです。「知識」「技術」が表面に現れることによって「個性」は背景に押しやられた。

 「教」が栄えれば「育」は衰えるのは道理です。それこそが「銀行型教育」の生みだした文化だったと思います。それは個人個人にかかわる「教<育」ではなく、「国家」や「社会集団」に貢献するための「教>育」であったのです。これまで疑われながらもなんとか持ちこたえてきた「教>育」が行き着いた地点、それが「現在」だというふうにとらえたいんですね。

 飛躍した言い方になりますが、それは国の進む方向にに資する「国民」養成の教育であり、換言すれば「一種の民族」教育であったと指摘したいのです。戦後一貫して「国民教育」がさまざまなセクターから標榜・主張されてきたのは周知の事実です。もちろん、その亡霊を固く信じてこの先も「民族」教育を学校に強要しようという力学は、いまなお強力に働いています。その限りでの、「人権」教育ではなかったか。きわめて偏向した「人権教育」だったと指摘しなければならないと思います。

________________________________________