学校の中で多数派と多様性を考える

 《 平均値によって語られる全体は、一々のちがいを問うことをせず、問題があっても、それを例外としてしりぞける。ですから、教育の偏差値偏重にしめされるように、平均値ばかりが優先されることになると、一人ひとりがいま、ここにもつ生きかたという具体的な視野が、ずんずん失われてってしまうようになる。平均値にたよってものをかんがえ、一々の事実の語るところのもの、一人ひとりのちがった生きようがになっているものを落っことしてしまえば、平均的には理想的だけれど、ありていは惨憺たるものというようなありようを、みすみす甘受しなければならなくなるでしょう。『一九八四年』の作家オーウェルのいった痛烈な言葉をおもいだすんですが、オーウェルは「正気というのは統計的なものじゃない」といった 》(長田弘「一人ひとりの側から」)

 平均値にたよって物事を判断することがどんなに「惨憺たるもの」か、その事例には事欠かない。「統計をとって、一致してる数のおおいものを多数というふうにとるのは、いかにも目だつし、みやすいけれど、数というのは勘定のしかたで、とてもトリッキ-になる」(同上)ものです。ぼくはどこかで「世論調査」は「世論操作」だといいました。調査する側の操作を言う場合もありますが(そちらの方が多いか)、出された数値そのものが世人に与える影響が「操作性」を持っているともいえるのです。

 たとえば選挙の例を挙げてみます。ある自治体の知事選挙の投票率が30%だったとします。有権者が300万人とすれば、投票した人は90万人。候補者が何人いても、相対的多数を獲得した候補者が当選するわけですから、実に奇妙なことが発生します。一位が10万票だとすると、なんと有権者数の三十分一の得票で知事になる。

 でも、この知事選でもっとも多数を占めたのは棄権した人で、その数は210万人。一位の候補者に投票しなかった人は290万人いたことになります。「多数派がピックアップされてゆく過程で、何を百としての多数派なのかという、もとになる百、もとになる全体というものが、だんだんちいさくなってゆくんですね」(同上)

 これはなにも選挙にかぎらない話です。「多数派」を優先させる社会の落とし穴とみていいですね。数によって示される全体(多数派)の意思というものがますます小さな部分になっているにもかかわらず、それをもって住民や国民の総意とされてしまう。「それはみんなの意見だ」というときの「みんな」は一割だとか五分だいうのは、いかにも奇妙で恐ろしい事態だし、「惨憺たるもの」というほかない。「多数派」を優先すると、見なければならない大切なものを見落としてしまう、そのことの弊害を考える必要がありそうです。

 「いまはすべてをベストテンみたいなしかたで測って括って、数のおおいものに時代の焦点をみようとしがちで、そうしたなかで、社会の全体像がずんずんちいさくされている、あるいはちいさくみせられていることがあるとおもう」(同上)10%が全体である状況を放置しておくと、それはやがて5%になり3%になることは時間の問題で、最後にはたった一人が全体を代表することになりかねない。そんな状況があちこちで見られているのではないですか。

 《 しかし、社会の容量というのは、多数派によってではなく、多様性によって決まる。今はこういう時代なのだと、多数派の言葉で語るベストテンやクローズアップされた情報の側からでなく、一人ひとりの側から、わが身の側から、ものをみていくようにしないと、(中略)われにもあらず、じつはトリッキーなしかたでちいさくされてゆく全体に、足をとられちゃうことになる。多数派が幅をきかせる社会というのは、きまって浮き足だった社会です 》(同上)

 全体主義社会とは圧倒的多数の意向が力をもつような社会のことではないとぼくは思う。社会の全体像がかぎりなく小さくされてしまう状態にある社会のことじゃないか。少数意見が全体の意見にされるような社会だといってもいい。マイノリティとマジョリティなどといわれますが、じつは無力なのはマジョリティの方なんですね。さきほどの選挙の例をもう一度考えてみましょう。10万票が多数派だとみられますが、実際の多数派は290万人の方です。でもその290万人は一つのかたまりじゃない。極論すれば、各人各様ということです。だから、数のかたまりでいえば10万が多数になるだけの話です。

 「それぞれがたがいにちがうということが、わたしたちにとってのたのしいありようなのだという感じかたを、じぶんに失くさないようにしたい」(同上)

 「日本人」というかたまりはどうか。「日本人として、日本人らしく…」というかたまりを強いる教育が横行してきました。このようなときに大切なのはかたまりからぬけでるというか、自分をひきぬくことだと思う。自分はかたまりの一部じゃないという姿勢。どこにでもかたまりはできるし、ひとたびかたまりが生まれ、自分がその一部になると、なんだか自分は強くなったような気になる。みんないっしょ、という相互依存の気持ちが働くのでしょうか。でもよくよく考えてみれば、一枚岩とか一糸乱れずというのはいかにも不自然で、そんなことをあり得ないし、あってはいけないことだとぼくは思います。あるはずのないことをあると信じるのは錯覚であり、錯覚に乗っかると奇怪なことを犯してしまう。徒党を組み、党派に頼るというのは一種の暴力主義だといえます。

 ぼくたちの社会が進めてきた学校教育で、この多数派と多様性というものはどのように受けとめられてきたのか。たいていの教師は口を開けば、個性の尊重という。一人ひとりの個性を伸ばしたいと。教育は個性の尊重につきるとまでいわれることもあります。まことに美しい表現ですね。でも、個性とはなんだろうか、というもっとも素朴でもっとも肝心な事柄にかんしてはおどろくほど無関心というか冷淡なんじゃないですか。多数派(集団)というものでもって多様性(個人)をからめとってきたのが学校教育の歴史の実態だとみるのは極端にすぎますかね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。