
そだてるということは、そだてられるということと、きりはなせない。
そだてるものみずからがそだてられるということがなければ、そだてるということは、なりたたないのではないか。/ そだてるという行為は、せまく見れば、ふつう家の中でおこなわれている。/ 社会が社会一般として次の世代をそだてることができないから、家という小さな場をとおして次の世代をそだてるというふうに考えられないこともない。そうすると家には、現存の社会をこえる一つのかけが、いつもあるわけだ。

家というものは、性の欲望によって男女がむすびついてつくるもので、そこに生殖がおこなわれ、生まれた子をそだてることになる。/ いったん家がつくられると、無制限に性の欲望をみたそうとしてゆくことはできない。そういうはだかの欲望をおさえるための秩序が家を保ってゆくためには必要とされ、そこから、近親相姦の禁止などという規範がたてられることになる。/ 秩序が家の中にできるということは、うらがえして考えれば、家の中では、おたがいが殺そうと思えばたやすく殺せる間柄にあるということである。(「世代から世代へ」鶴見俊輔集10『日常生活の思想』所収。筑摩書房刊、1992)
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子殺しや親殺しはいつの時代にもありました。でも近年のように、まるで近親関係を成りたたせていた結びつきそのものが壊れてしまった状況は、かつてなかったのではないでしょうか。他人の家に入り込んで殺すより、よほどかんたんに殺人を犯しやすい場所(空間)だからこそ、おたがいに殺さない・殺されないという約束をまもり、それぞれがそだち―そだてられるという関係を長い期間にわっって保ってゆく、それが家というものの原型だったと思われます。

そんな家の形が壊れてしまって、たがいが助け合ったり、そだてあったりできなくなったのはたしかですが、もしそうだとするなら、その理由はどこにあるのか。家にいると安心というのが相場でした。「安」というのは、家で寛ぐ女性を示しています親子関係だけではなく、二世代三世代にまたがる関係も、また新たな課題を生んでいるのです。親がいたいけな子ども(幼児)を殺す、子どもが親を殺す、こんな事件が後を絶ちません。
親が子どもの命を守り育てる、それは親の「義務」であり、子どもが健やかに育つのは、子どもの「権利」です。つまるところ、子どもの権利は、保護者が義務として守り育てることがなければ、存在しえないのです。権利と義務は相反するするものでも、別個のものでもありません。権利を保障するものが義務です。義務は権利を認めてはじめて果たされるのです。
今この島は世界最高の長寿社会を迎えていますが、それははさまざまな新規現象をもたらしています。すべてが肯定できるものだけではないから、この島社会の現実は危機をはらんでいるというのです。あるいは、危機を通り越してしまったのかもしれません。近親者の殺害事件が後を絶たない。昨日のこと、こんな戦慄すべき事件が起こりました。興味本位ではなく、じつに深刻な状況を知らせているようにぼくには思われるのです。祖父が孫を殺害したというのです。(別の報道では、孫娘はある男性と「同居」していたとされます)
育つ・育てるの関係が「親子関係」「祖父母孫」にまたがっていたといえそうです。核家族(a nuclear family)の変化・変貌、いまおこっているのは核爆発か、核融合か。ぼく自身足元を含めて、けっして予断も油断もできない事態がこれからも続きます。少子高齢化時代のさなかに、その次の家族の姿かたちを考えているのです。

女子高生の遺体が見つかった住宅周辺を調べる捜査員=10日午後4時56分、福井市
孫娘殺害疑いで同居祖父逮捕 鋭利な刃物使用か、福井 2020年9月11日 07時21分 (共同通信)
福井市黒丸城町の2階建て住宅の室内で10日未明、高校2年の冨沢友美さん(16)が死亡しているのが見つかり、福井南署は同日深夜、殺人の疑いで、この家で同居する祖父の無職進容疑者(86)を逮捕した。/ 福井県警によると、進容疑者は9日夜に鋭利な刃物で友美さんを殺害したとみられる。上半身には複数の刺し傷があり、致命傷となったことも判明。進容疑者は友美さんと2人で暮らしており、凶器の特定や動機の解明を進める。県警は認否を明らかにしていない。/ 県警によると、進容疑者は事件後、友美さんの父親に電話で連絡。駆けつけた父親が「娘が倒れていて動かない」と110番した。
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鶴見さんの語るところをつづけます。
「家というものは、いつ家人に殺されてもよいという覚悟に結ばれた場であると言える。そういう場で、体力差のあるもの、知力差のあるもの、関心の差のあるもの、かせぐ力の差のあるものが、たがいに助け合って、共同のくらしをたてている。それが家という、おたがいをそだてる場であり、その場をなりたたせるもとの力として、おたがいにたいしてはたらく親和力がある。性交への衝動が家をつくる最初の力であったとしても、その親和力のほうが、性にたいする欲望や、生殖にたいする欲望よりも、長期にわたって家をなりたたせる力としては大きい」(同上)

親和力 ― それは自然界にみられるような弱肉強食、競争主義によって営まれる生存競争を回避するための「家」にこそふさわしい、助け合いやいたわり合いの感情といってもいいでしょう。親は子どもの面倒を見るのがあたりまえというのではなく、親が衰えれば子どもが世話をするというのはどこにでもみられました。兄弟姉妹の関係も、けっして長幼の序などに縛られてはいなかったように思われてきます。祖父母―孫関係もしかり。たがいに助け合うという心組み。助け合い、育て合い、支えあう関係、つまりは親和力 ― 血縁だからという必要はない ― それが家のなかから消えてしまったら、それに代ってどんな力がはたらくか。
「助け合いの気組みが家の中に生じたあとでも、それが保たれるためには、家をとりまくもっと大きい隣り近所、それよりさらに大きい社会の中に助け合いの気分の回流があって、それが家の中にも流れ入ってくるようでないとむずかしい」(同上)
今は家族は孤立して漂流しているように見えます。どこかに行く当てもなく彷徨っている。船長もいなければ、航海士もいない。船自体は外に向かって閉じられている。救助信号も届かない。極端に聞こえそうですが、まるで絶望の海をひたすら彷徨っているようではないでしょうか。以前は方向を知らせてくれた、その灯台さえもない(見えない)。そのような閉じられた空間から、時に荒れた海に飛び込むように脱出を図る人も出てくる。それを阻止する力も働く。

学校が競争主義の原理に毒され、教師と子ども、子ども同士のあいだに「そだて、そだてられる」という関係がなりたたなくなったとき、それはまことに殺伐とした空間となってしまったのは明らかです。学校から、ある種の親和力が失われて久しいのですが、それにやや遅れて、いよいよ家のなかからも親和力が奪われてしまった、それが家族を結びつける力としてはたらかなくなったといわなければなりません。
教育に必要なのは、最も求められるのは「人間の要素」「人間の条件」です。面倒なことは言わないつもりですが、競争を煽り、優劣を競わせる、そんな現実は決して教育における人間の要素たりえないのは言うまでもありません。教師と子ども、子どもと子ども、そのなかにこそ、血中に必要な塩分量のように、人間的要素が求められているのです。血液の中にはさまざまな要素が含まれており、それをさまざまな臓器や器官が働いてバランスを保っている。果たして家の中、学校の中にバランスの良い養分が含まれているだろうか。過酸性、過アルカリ性になっていないだろうか。塩分や中性脂肪は適正量を保っているだろうか。その適正はバランスを保とうとする器械は正常に働いていないようですが、なんとかそれを正常にしたいと、ぼくは遅ればせながら、やきもきしているのです。もう一度、現場に戻るか。
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